私(29)は被爆3世だ。母方の祖父は1945年8月9日、長崎市で被爆した。当時9歳。爆心地から南に約3・5キロの場所で、建物の地下に逃げ込み、生き延びた。
祖父は私が中学生だった2010年、74歳で亡くなった。被爆体験を直接聞くことはなかったが、外科医になり市内で開業した祖父は戦後50年となる95年、地元の医師会報に戦争体験記を寄稿していた。
私も小学生の頃に一度読んだが、当時の私には言葉が難しく、漠然としか理解できなかった。
東京の下町の取材を担当していた今春、東京大空襲の体験者に話を聞いた。ふと、祖父の手記のことが頭をよぎった。
私は祖父の被爆体験を断片的にしか知らない。このままでいいのだろうか。幼かった祖父は、キノコ雲の下で何を思ったのだろう。
約20年ぶりに手記を読んでみると、9歳が見た戦争の「リアル」が浮かび上がってきた。
- 【後編】散逸する戦争体験者の遺品、どう向き合う デジタル化を進める若者も
「突然、すさまじい稲光が」 祖父を襲った原子爆弾
祖父(大林協治)の手記は、「原子爆弾まで」(95年8月 長崎市医師会報第342号掲載)と「原子爆弾から」(同 長崎県医師会報第595号掲載)の二つがある。
長崎は、戦艦「武蔵」などを建造した三菱重工業長崎造船所があり、造船業で栄えていた。曽祖父は造船所の付属病院の外科医で、一家は現在の飽の浦町にあった病院の社宅に住んでいた。
手記によると、原爆投下の8…