卒寿を迎えてなお、先の戦争の語り部として精力的に活動する浅野卓(たかし)さん(91)=埼玉県北本市在住。日本の傀儡(かいらい)国家・旧満州国(現・中国東北部)に生まれ、敗戦後も貧しい少年時代を送った。その語りは、1945年8月15日を境に、平和がすぐにやって来たわけではないことを私たちに教えてくれる。
「午前は学校、午後は畑で勤労奉仕。その帰りによく歌っていました」。北本市で8月3日にあった講演会。約200人の聴衆を前に、浅野さんはいきなり歌い始めた。
♪若い血潮の予科練の/七つボタンは桜に錨(いかり)/今日も飛ぶ飛ぶ霞ケ浦にゃ/でっかい希望の雲が湧く……
当時の流行軍歌「若鷲(わかわし)の歌」だが、楽しい思い出ではない。「自由にものが言えない。もし抵抗すると憲兵に連行される時代でした」
満州での戦時体験を人前で話すようになったのは14年前、市内の中学校からの依頼がきっかけだった。以後、県内の自治体や小中学校、県平和資料館などに招かれて話すようになった。話は80年前の5月、11歳だった時から始まる。
南満州鉄道(満鉄)の技師だった父、母、2歳下、10歳下の弟2人と、ソ連との国境に近い満州の牡丹江(ぼたんこう)市で暮らしていた。日本の敗戦ムードが濃くなり始めたある日、ソ連が攻めてくるとのうわさが流れ、一家は着の身着のまま屋根のない貨物列車に飛び乗った。2日がかりでめざしたのは満州南部の撫順(ぶじゅん)市。
その列車内で知った日本の敗…