日本のサッカージャーナリストの草分け、賀川浩さんが5日、亡くなった。99歳だった。サッカーに限らず、五輪をはじめスポーツ全般、世界の歴史、地理など、博識の人だった。

1979年、世界ユース選手権で来日したアルゼンチンのディエゴ・マラドーナ選手(左)と賀川浩さん=賀川さん提供

 1924(大正13)年、神戸で生まれた。開国とともに貿易港として栄えた港町。

 「サッカーという窓を通して世界の歴史を知り、活字にする好奇心が芽生えたのは、外国文化が身近な神戸で育ったから」

 全国高校選手権の前身、日本フットボール大会で、神戸勢は戦前の第1回から第22回までのうち16回で優勝した。賀川さんの母校、神戸一中(現神戸高)も優勝の常連だった。賀川さんの2歳上の兄、太郎さんも神戸一中でプレーし、のちに日本代表で活躍した。

 賀川さんは第2次世界大戦中、特攻隊として朝鮮半島に渡った。いよいよ出撃と思われたころ、玉音放送で日本の降伏を知る。

 45年10月、京都の親類宅に復員した。

 京都の夕刊紙にサッカーの記事を書いたのが目に留まり、52年、産経新聞に入社。大阪本社の運動部記者となった。文化部デスクに、のちの大作家、司馬遼太郎さんがいた。

 「格調高い文章を書く人やったなあ」。そう思ったそうだ。

 入社3年目の秋、東西六大学…

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