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明日への一石~記者たちのヒストリー

 平成元(1989)年夏、参院選で自民党が大敗、当時最大野党だった社会党が大勝して衆議院と参議院の「ねじれ」が生じました。その後、政治改革の大風が政治の世界に吹き、幾度か政権交代もありました。平成から令和に続く30年余の政治の動きを間近で見続けた曽我豪記者(現編集委員)は、その時々に何を思い、どう考えてきたのでしょうか。自らの来し方を振り返り、行く末に向けてつづります。

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首相官邸中庭で行われた細川内閣発足後の記念撮影=1993年8月9日、首相官邸

 昭和から平成になって間もない1989年4月29日。当時50代半ばだったろう、白髪の石川真澄編集委員が国会記者会館に現れるなり、私たち若い記者にこう告げた。

 「僕が政治記者の間にこんな数字を見るとは思いもよらなかった。僕らの政局は結局、自民党の中での首相交代どまりだった。君らは違う。新しい政権交代の時代を目撃できる運命にある」

 石川編集委員が政界取材を始めたのは、自民党の全盛期といっていい昭和30年代。理系出身、政治分析に数量的手法を導入した記者としても知られる。現実政治を冷静に見つめ、政治コラムを書き続けてきた。

 会館にいた記者の中に私もいた。27歳。消費税が導入された4月1日に政治部に来たばかりだった。

釜の底が抜けた!驚愕の数字

 政治は激動していた。同月25日、リクルート事件と消費税を巡る逆風を浴びて竹下登首相は退陣を表明。翌日には事件の渦中にいた腹心の青木伊平秘書が自殺した。一報を聞いた首相の顔が蒼白(そうはく)になるのを、「総理番」だった私は目撃した。

 だが、編集委員を驚愕(きょうがく)させたのはそれではない。朝日新聞29日付朝刊に載った世論調査の数字だった。

 7%まで落ち込んだ内閣支持率もさることながら、衝撃的だったのは政党支持率だった。自民が42%に下落。かたや、社会、公明、民社、共産など野党の総和は44%に達した。多弱のはずの非自民勢力が自民党長期政権を覆す兆しが見えた瞬間だった。

 私もまた、視界が開けると同時に、釜の底が抜けた気がした。

 その後も自民党は失敗を重ねる。新総裁には宇野宗佑氏を担いだ。竹下氏が根回しし、両院議員総会で選ぶ派閥談合型だ。だが就任直後に女性スキャンダルが発覚した新首相には7月の参院選で地方から応援要請はなし。第一声は私たち総理番や党職員らを相手に党本部の中庭で発する有り様だった。

 有権者から遊離した自民党は惨敗し、衆議院と参議院の多数派が異なる「ねじれ」が生まれた。55年の結党以来保持してきた国会の「1強体制」が崩れたのだ。その先にあったのは「主役」の交代だった。

 93年夏、宮沢喜一政権下で自民党は政治改革を巡り分裂。直後の衆院選で過半数を割る。「主役」に躍り出たのは新党群だった。

民意のリアリズムを痛感

 忘れられない光景がある。その前年に細川護熙氏が立ち上げた日本新党の街頭演説を見に行くと、通行人たちがビラを求めて殺到している。永田町外からの新規参入者が持つ破壊力と言おうか。選挙情勢は、支援者が陣取るマイク前でなく、無党派が多い後方の反応を確認しない限り分からないと知った。

 連立政権協議で政治改革の方針を示せぬ自民党は、日本新、新党さきがけ両新党を非自民側に追いやり、細川連立政権の誕生を許した。結党以来、初めて自民党は下野した。改革のサボタージュを許さぬ世論の怒りに鈍感だと、国会で多数派は形成できない――。教訓になった。

 一方で、非自民政権が抱えるもろさも目の当たりにした。社会、公明、民社などの既成政党と、日本新、さきがけ、新生党の新党による8党派連立の危うさは、国民福祉税の頓挫など内紛を生む。政権担当能力の欠如は隠せず、首相を細川氏から羽田孜氏に代えても局面は転換できない。約1年で自民党が社会、さきがけ両党と組む連立に政権を奪われた。

 政権交代の掛け声でひとたび世論は喚起できても、政策転換の実を十分に示さないと、期待した分だけ失望は極大化する。そんな民意のリアリズムを痛感した。

 世界が大変革期に突入しているのは揺るがないように見えた。米ソの冷戦構造は崩壊、低成長の時代が始まっていた。内外政策の全分野で前例踏襲を排して白紙から処方箋(せん)を書かねばならない。それが、政治家、官僚、記者を問わず共有された時代意識だった。

 成長のパイを再分配する利害調整型から、負担の共有を辞さない「政治主導」の政策断行型へ。「顔」のすげ替えと政策の微修正にとどまる自民党内の「疑似政権交代」から、政策の抜本転換をもたらす政権交代可能な「二大政党制」へ――。平成期の政治改革が掲げたこの二大目標が、昭和の古い自民党政治の否定に集中したのは当然と思えた。政治改革で実現した小選挙区を軸とする衆院の選挙制度改革はその変化を後押しするもので、プラス面の方が多いと、私も考えた。

政策の錬磨と新陳代謝を促すはずが……

 2009年、麻生太郎・自公政権は内閣と党の支持率低下に直面し、民主党政権誕生は時代の趨勢(すうせい)と見えた。オピニオン編集部にいた47歳の私は、現在は御厨貴・東大名誉教授(当時は東大先端科学技術研究センター教授)らとともに自民、民主両党の地力を定点観測的に追う「政治衆論」という対談企画を始めた。衆院選直前には「あえて問う 政権交代は善なのか」と題し、英国の例などを引いて、政権には体系的な政策構想が必要だと論じた。

 夏の衆院選で民主党が大勝して新政権が誕生した際、一面論文を任された私は、政権交代前の首相である麻生首相がリーマン・ショック後の日本経済に関して「全治3年」と言ったのを引いて、「まずは最短で全治4年を自らに課せ」と書いた。

 そうなのだ。私は平成改革が健全な競争意識を政党政治にもたらすと、素直に信じていた。政権交代が自民と非自民の双方に政策の錬磨と世代交代や女性進出など新陳代謝を促すはずだ、と。

 現実は違った。

 悔やまれるのは、先述の政治衆論で政党の点数付けの指標にした「党首力」「政策力」「変換力」「統治力」に、「説明力」や「新陳代謝」を加えておけば良かったということだ。時勢におもねらず、民主党の政権担当能力の欠如にもっと明確に警鐘を鳴らすべきでもあった。政権に復帰すれば危機をすぐ忘れる自民党の悪癖も強く問題提起しておく必要があった。

 10年に出版された、堤清二氏がペンネームの辻井喬名で書いた「茜色の空」(文藝春秋社)など大平正芳・元首相に関する書物を読みあさったのはその頃だ。「六十点の政治」や「楕円(だえん)の哲学」など大平政治のキーワードはとりわけ心に染みた。己だけが百点満点と思う独善性が、別の中心点への尊重=政党政治の生命線である合意形成を損なう。昔の自民党にはあった保守の懐深さだ。

 だが民主党政権が始まって3年、それとは真逆の光景が忍び寄っていた。かつての自民党とは異なる「1強」政治である。

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民主党(当時)を中心に政権交代を実現して2009年に発足した鳩山由紀夫内閣=2009年9月16日

その夜、安倍氏と麻生氏が語ったこと

 12年11月14日。民主党政権の野田佳彦首相が党首討論で、野党・自民党の安倍晋三総裁を相手に衆院解散の断行を告げた。首相の師匠役を自任する藤井裕久・元財務相に話を聞くと、前夜に解散見送りを首相に念押ししなかったことを悔いていた。敗北と政権下野をすでに覚悟した物言いだった。

 その夜、私は安倍、麻生両氏と3人で会った。店のテレビでサッカー・ワールドカップ予選の対オマーン戦が放映されていた。日本代表は前半、先取点を挙げたが、後半すぐに追いつかれ、それでも最終盤に切り札の選手を投入し決勝点をもぎとった。安倍氏はテレビの画面を食い入るように見つめていた。

 試合が終わった後、安倍氏は言った。

 「今の自民党は前半の日本代…

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