【連載】証言 アウシュビッツ解放80年(3)
反ユダヤ主義が高まる中、アウシュビッツ強制収容所の生存者たちは、差別と憎しみの再来に心を痛めています。一方で、イスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの大規模攻撃に対する批判も認識し、複雑な思いで見つめています。
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ドイツ南部ミュンヘンの小児科医エバ・ウムラウフさん(82)は、1歳10カ月だった1944年11月初め、アウシュビッツ強制収容所へ妊娠中の母親と一緒に連れられてきた。当時、収容所に着いた子どもたちは、大勢のユダヤ人をまとめて虐殺するためのガス室に連れて行かれていた。「我々が到着直前にガス室が中止になったと聞いた。ほんの数日の違いで生き延びられた。幸運が与えてくれた命です」と言う。
生まれたのはスロバキア中西部にあるノバキー収容所だ。ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害が強まる中、「結婚すれば収容所に送られない」といううわさを聞き、母は18歳の時、30歳の父と結婚した。だが直後に収容所に連行され、強制的に労働をさせられた。
その後に移送されたアウシュビッツでの3カ月弱の間、記憶はない。ただ、左腕には黒い墨の痕が広がり、今も残っている。アウシュビッツに到着後、入れられた番号「A―26959」の痕だ。戦後、母親はアウシュビッツのことをほとんど語らなかったが、針で墨を入れられたウムラウフさんが「あまりの痛さに泣いて失神してしまった」と教えてくれた。数字の大きさは体の成長とともに変化したが、今もうっすらと浮かんでいる。
ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を生き延びた人の中には、戦後も差別を恐れてユダヤ系住民であることを隠すため、番号を手術などで消した人もいる。しかし、ウムラウフさんはこの数字を消さないできた。
「数字は私の体の一部。人間…