「この歌を歌うたび、ベトナム戦争へ向かう米軍の兵隊さんが涙を流していた光景が思い浮かぶんです」
2024年9月、沖縄県浦添市でジャズミュージシャン4人の米寿を祝って行われたコンサート。歌手の斎藤悌子さん(89)は満員の客席に向かい、静かに話し出した。子どもを思う親の切ない心境が描写された「ダニーボーイ」を歌う前のスピーチだった。
斎藤さんの、年齢を感じさせない力強い歌声に、観客はうっとりと聴き入っていた。
【初回から読む】沖縄ジャズの名店響く自由な音 きっかけはビル・エヴァンス
米軍統治や日本復帰など沖縄が歩んできた歴史の片隅で紡がれていた「ウチナージャズ」をたどる連載、全5回の2回目です。
斎藤さんは1935年、宮古島に生まれ、戦争時は台湾に疎開した。沖縄戦を直接経験することはなかったが、那覇に残った父と学生だった姉が、いつでも自決できるよう常に毒薬を持っていたと後から知った。
那覇高校に入学して音楽に出会い、卒業後、米軍基地でジャズバンドのボーカルとして演奏に参加するようになった。ベトナム戦争が開戦してから、毎日のように米兵からリクエストされたのが「ダニーボーイ」だった。
戦争へ向かう彼らは、曲を聴きながら涙を浮かべて踊っていた。「親や恋人、大切な人と別れなければいけない状況はどれほどつらいのだろう」と胸が締め付けられた。
斎藤さんには、牧師として日本復帰活動や基地反対運動をしてきた兄がいる。平良修さん(93)だ。平良さんは米国統治下の最高責任者である高等弁務官の就任式で、米軍に批判的な祈りを捧げた牧師としても知られている。
斎藤さんは兄と基地や沖縄について数十年以上話すことはなく、平良さんも妹の歌を聴くことはなかった。斎藤さんの長女の東山盛敦子さん(57)は、「戦後、沖縄で傷ついた人を助けようという時に、母は米軍を楽しませる立場だった。おじは言葉にはしないが、心の中で抵抗があったんだと思う」と話す。
ステージ上で突然のハグ
そんな兄妹に転機が訪れたのは22年10月、本部町で開かれたライブだった。会場に平良さんの姿があった。斎藤さんがいつものようにスピーチをしてから、「ダニーボーイ」を歌った。
「’Tis you, ‘tis you must go and I must bide.(あなたは行ってしまい、私は残らなければいけない)」
歌が終わると、平良さんが突…