終戦後の東京・上野駅地下道には、守ってくれる親を奪われた戦争孤児たちが数多くいた。
栄養失調で倒れても支援は届かず、幼い命が次々と路上に消えた。
現在では想像もできない状況がそこにはあった。
「盗んで殴られるより空腹がつらかった」
「浮浪児」と呼ばれた孤児の一人だった女性はそう振り返る。
――鈴木賀子(よりこ)さん(87)=埼玉県川口市=は終戦後間もない頃、上野駅の地下道にいた。当時7歳、4歳の弟も一緒だった。1945年3月10日の東京大空襲で家を焼かれ、親を亡くしていた。
水道の水を飲むだけで2日も3日も食べていないと、おなかがすいて座っていることもできません。コンクリートの上に横たわっているしかなかった。
栄養失調で動けない「浮浪児」を、通行人が「邪魔だ」って蹴飛ばしていく。蹴られても動かない子は死んでいるんです。
夜は、そのへんから拾ってきた布団の燃えかすみたいのをかぶって寝てました。朝起きたら隣で寝ていたおばちゃんが死んでいる。
そんなこともよくありました。
駅員や警察官が巡回に来て、亡くなっている人を抱えて運び出していきました。その光景を見ても、そのうち何とも思わなくなりました。人が死んで悲しい、なんて感情はなくなっていました。
そんな時代が日本にあったことを、いまの人は想像できないでしょう?
戦後80年
戦後80年となる今年、あの時代を振り返る意義とは何か。全国各地のニュースをまとめています。
――弟と2人の命をつなぐため、残飯をあさり、弁当を盗んだ。生き延びるすべを教えてくれたのは、同じく「浮浪児」だった「お兄ちゃん」だった。
いまの小学校高学年か中学生ぐらいのお兄ちゃんから、「ちょっと来いよ」って声をかけられました。
当時は食堂なんてそれほどないから、列車で上京した人たちは上野公園でお弁当を広げて食べていた。それをみんなで狙うんです。
わたし女でしょう。女の子だ…