10周年を迎えた朝刊1面のコラム「折々のことば」筆者の鷲田清一さんは、身体論やファッション論のほか、介護や労働の現場を巡る思索を重ね、様々な言葉を紡いできました。日本文学研究者のロバート キャンベルさんに、鷲田さんの著書から琴線に触れた「ことば」を三つ選んで解説してもらい、鷲田さんの言葉から感じることを寄稿してもらいました。
ロバート キャンベルさんが選ぶ鷲田清一さんのことば
『モードの迷宮』(1989年)から
身体はわたしの最初の衣服なのだ。
服は鎧(よろい)であり、逆に世界と闘う燃料だと言う人もいる。「わたし」という可視的でフィジカルな存在は物心ついた時から周りに見られ、ルールにがんじがらめにされ、けれどその身体が何だかわからないまま不安を引きずり生きている。服と違って体は容易に棄(す)てられない。世に向かう産衣(うぶぎ)であると。ならば、綻(ほころ)びが出ない頑丈な一枚に育って欲しい。
『感覚の幽(くら)い風景』(2006年)から
食べさせてもらうということほど、心を動かすものはない。
一方的に語り続けてきた思想界に対する哲学者の真骨頂。食事を他者からの応援と考える人の、静かに戴(いただ)く受け身の姿勢。差し出されたご飯は「じぶんをほどいて、それこそ馬鹿みたいに口をあんぐりできる」喜びである、と。嚙(か)むほど旨味(うまみ)のように「生きる」手応えは体中に広がり、心に届く。人の話を聞き切ることと同じく、存在を豊かに揺らす瞬間である。
『生きながらえる術(すべ)』(2019年)から
生きるということは〈面〉をもつことだ。
繫(つな)がるとか、結ばれるとか、「糸」で束ねられた人の姿を浮かばせる言葉はたくさんあって、まるで裁縫箱のようである。「絆」も大切な牛馬を逃さないための「引き綱」が元の意味であったとか。そう言えば厄介な縺(もつ)れも糸偏である。横に繫がったわたしたちは表面の上を巡り、転びそうな時は他者に支えられ、支えることもできる土俵を持つことが肝心であると著者は言う。
ロバート キャンベルさん寄稿
コロナ明けから近所では家の建て替えが続いている。代替わりで家が要らなくなっているらしい。塀越しに見慣れた古い建物が次々と解体され、更地は二筆三筆と細かく区割りされていく。丁寧に手入れされた沈丁花(ジンチョウゲ)は引き抜かれ、塀も取り払われ、養生ネットが視界を遮断する。木製パズルのように配置した建て売り住宅の平面図を描いたチラシがポストに入ってくるのは、数カ月後のことである。
人のものだし、文句を言う筋…