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第69回大会。開会式でグラウンドに整列する選手たち=2024年8月25日、兵庫県明石市の明石トーカロ球場

 今夏、全国高校軟式野球選手権大会が70回の節目を迎える。それを記念して5月5日、東西の選抜チームによる交流試合が開かれることになった。「全国高等学校軟式野球選手権大会70回記念 春の軟式交流試合 in 甲子園」=日本高校野球連盟主催、朝日新聞社など後援。全国から選ばれた50人が、阪神甲子園球場で白球を追う。

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体格差関係なく、世代もつなぐ軟式

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打撃練習をする天理の軟式野球部員

 日本でゴム製の軟式ボールが開発されたのは1918年にさかのぼる。以降、硬式と比較してボールなどの用具が安価で、かつ安全な軟式野球は国内の野球普及に大きく関わってきた。高校の全国選手権は1956年に始まり、今夏、70回の記念大会を迎える。

 いま、高校の軟式野球部は、様々な競技レベルの生徒が野球を続けられる場になっている。2016年に全国制覇した強豪の天理(奈良)でも、それは変わらない。

 部員の中学時代の実績も様々だ。全国大会の出場経験者もいれば、地区大会で一つ勝つのが精いっぱいだった学校の出身者もいる。なかには、高校入学時は体が細く、硬式野球部への入部を諦めた部員もいる。

 「体格差関係なく、いろんな選手が活躍できるのが軟式の面白いところ」と同校の硬式野球部OBでもある木田準也監督。ボールが軟らかいため、力があるだけでは打球は飛ばず、得点が入りにくい特徴がある。

 そのため、盗塁やバント、ヒットエンドランを駆使した戦術や、守備の重要度が高い。部員それぞれに究めてほしい役割を伝え、練習試合は全部員を起用するという。

 また、年に1度は60代までの卒部生と部員との交流試合も行う。岡田敬之部長は「軟式は卒部生との(試合を通じた)交流もでき、野球を続けていく将来像を感じやすい。野球を次世代につなぐ場になっていけるのでは」と話す。

 5日の交流試合は、硬式野球部のあこがれでもある甲子園で開かれる。天理からは内野手の勝又瑠威(3年)が出場する。木田監督は「軟式野球という選択肢を広く知ってもらい、野球から離れる学生が減ることにつながればうれしい」。胸に大きく「天理」と縫い付けた伝統のユニホームは硬式と同じデザイン。軟式部員全員でスタンドから声援を送る予定だ。

部員数は横ばい 減り続ける硬式とは対照的

 日本高校野球連盟によると、軟式の加盟校数は1984年度の702校をピークに減少が続く。2024年度は381校。2007年に全国制覇した新見(岡山)や全国選手権に4度出場の報徳学園(兵庫)は練習場所の確保や教員の働き方改革などを理由に2023年度で廃部となった。

 軟式部員数は1983年度に調査を始めて以降、2016年度に初めて1万人を割り、2020年度に7787人まで落ち込んだ。その後は微増や微減を繰り返す横ばいが続き、2024年度は7716人。硬式部員数が2014年度以降、一貫して減少しているのとは対照的だ。

 さらに特徴的なのは、継続率の高さ。1年生が3年生になった時に部に残っている割合は、2020年度から95%以上を保つ。2024年度は97・7%で、同年度の硬式は89・7%だった。

 大阪府高野連軟式部の多田真己委員長は「環境があれば軟式で野球を始めたり、続けたりしたい生徒はいる。交流試合をきっかけに、軟式野球がより広がるとうれしい」と話す。

「転校したい」生徒を救った 履正社の軟式野球部復活

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履正社軟式野球部の部員たち

 硬式野球の強豪で知られる履正社では昨春、軟式野球部が18年ぶりに復活した。前身の大阪福島商時代は1973年から5年連続で全国大会に出場したが、部員不足で休部状態になっていた。

 復活のきっかけは3年前、学校生活に悩んでいた一人の生徒だった。中学まで野球を続けたが、強化クラブの硬式野球部には入れなかった。授業だけの学校生活に嫌気が差したのか、1年生の冬に「転校したい」と言い出した。

 「野球しようよ」。担任をしていた原口祐起教諭が声をかけた。数人で三角ベースからのスタート。バットはリサイクルショップで探した。「楽しく学校に通ってほしいという思いだけだった」と、当時を振り返る。

 2023年に新入生(現3年生)が10人以上加わって同好会となり、その秋に部に昇格。昨夏の府大会で履正社として公式戦初勝利を挙げた。現部員は2、3年生で31人。うち10人ほどが初心者だ。

 高校から野球を始めた武田怜大(3年)は「褒めてもらえたり、これができるようになったと感じられたりするとうれしい」。小学5年生で一度、野球をやめたという樋上天星(同)は「怒られてばかりでしんどかった。ここでの練習は楽しい」。練習でミスが起きると、励まし、ときにちゃかす。経験者を中心に改善策を伝えることも忘れない。部をきっかけに、交友関係が大きく広がった部員もいた。

 部のモットーは「楽しくのびのび」「応援されるチームになろう」。統括部長になった原口教諭は「本気で何かに取り組むことが楽しいと感じてほしい。それが大人になってから困難を越える糧になる」。交流試合は「全国に軟式野球部があることを知ってもらえる、貴重な機会」と話す。今回、部員の選出はなかったが、今後の目標にもつながっているという。

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キャッチボールをする履正社軟式野球部の部員たち

軟式交流試合の選抜メンバー一覧

東日本選抜チーム(丸数字は学年)

投 後藤 大輝 ③宮城・東北

投 会田 大嘉 ③山形・羽黒

投 明才地倖太 ③栃木・文星芸大付

投 森川 天太 ③千葉・拓大紅陵

投 出口 未来 ③神奈川・三浦学苑

投 本木 魁星 ③長野・松商学園

投 小田切音和 ③長野工

捕 尾崎 佑成 ③北海道・登別明日

捕 名須川琉斗 ③岩手・専大北上

捕 中島 陽翔 ③茨城・古河

捕 石川 雅規 ③東京・城西

捕 多田進之助 ③神奈川・栄光学園

捕 渡辺  陣 ③新潟商

内 白浜 琢磨 ③北海道科学大

内 佐藤  耀 ②青森・弘前工

内 進藤 海星 ③秋田工

内 栗原 秀翔 ③茨城・茗溪学園

内 新井 絢斗 ③栃木・作新学院

内 加藤 弘輝 ③埼玉・花咲徳栄

内 中根航太ジェームズ ③東京・駒場東邦

内 岡田 凱世 ③富山商

外 藤原 大侑 ②秋田

外 引地 遼汰 ③仙台商

外 藤村 厚志 ③栃木・白鷗大足利

外 樋口 陽斗 ③群馬・高崎工

記録員 広野愛梨咲 ②仙台商

監督 西山 康徳 仙台商

コーチ 葛西健太郎 登別明日

コーチ 羽田野道希 長野工

責任教師 岡村 悟司 三浦学苑

西日本選抜チーム(丸数字は学年)

投 氏原 奏達 ③愛知・東邦

投 大橋 輝雄 ③京都翔英

投 田中 瑛士 ③島根・浜田

投 土屋 海旺 ③岡山・高梁城南

投 吉田倫太朗 ③徳島・富岡東

投 川崎翔太郎 ③熊本・文徳

捕 岩山 大翔 ③岐阜・恵那

捕 南  大和 ③大阪・河南

捕 原川 快理 ③広島商

捕 大内 陽聖 ③愛媛・新田

捕 橋本 大空 ③大分・津久見

内 杉浦 祥太 ③静岡商

内 片木 耕太 ③滋賀・比叡山

内 勝又 瑠威 ③奈良・天理

内 坂口 卓弥 ③大阪・興国

内 足達 大輝 ③鳥取・米子東

内 三浦 綾峨 ③山口農

内 木村 友祐 ②香川誠陵

内 早川 駿哉 ③長崎・五島南

内 佐藤 奏太 ③鹿児島

外 山本  錬 ③三重・高田

外 大塚 亮汰 ③兵庫・育英

外 山下 昊悦 ③和歌山・耐久

外 宮家 遥生 ③浜田

外 新原 旭斗 ③福岡・朝倉東

記録員 藤本 琉星 ③熊本・開新

監督 浅井 重行 開新

コーチ 本田 知紀 松江農林

コーチ 五十嵐公三 興国

責任教師 加藤 貴裕 恵那

全国高校軟式野球選手権の主なできごと

 1956年 第1回大会が大阪・藤井寺球場で開催。15校が出場し、土佐(四国・高知)が優勝した。

 1961年 第6回大会2回戦で県和歌山商(南近畿)―東北学院(東北・宮城)が再々試合となり、計44イニングをかけて決着。翌年からサスペンデッドゲームを採用。

 1981年 第26回大会から兵庫・明石球場などに会場を変更。藤井寺球場周辺が住宅地となり、応援の音量に配慮が必要になったため。

 2009年 第54回大会1回戦で名城大付(東海・愛知)の右腕・小林雄太が初芝富田林(大阪)を相手に史上初の完全試合を達成。

 2014年 第59回大会準決勝の中京(東海・岐阜)―崇徳(西中国・広島)戦が、日本野球史上最長の延長50回で決着。試合は4日間に及び、計10時間18分。翌年からタイブレーク制が導入された。

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第59回大会準決勝は延長50回、3-0で決着がついた。握手で健闘をたたえ合う勝った中京(右)と敗れた崇徳の選手たち=2014年8月31日、兵庫県の明石トーカロ球場

 2018年 誕生して100年になる軟式球の規格が大きく変更された。硬さが増して硬式に似たバウンドになったほか、打球がより遠くへ飛ぶようになった。

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守備練習をする天理の軟式野球部員
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部員と会話する履正社軟式野球部の原口祐起・統括部長(右)
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練習中に教え合う履正社軟式野球部の部員たち
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練習中に笑顔を見せる履正社軟式野球部の部員たち
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バント練習をする履正社軟式野球部の部員たち

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