ベトナム戦争終結後の1975~80年代、「ボートピープル」と呼ばれたインドシナ難民が、戦後の混乱から日本にも逃れてきた。多くの難民が定住した神奈川県の県営いちょう団地を訪ねると、高齢化する中で、50年前の記憶へのさまざまな思いが交錯していた。
エコーズ・オブ・サイゴン ベトナム戦争終結50年
南北統一を果たし、かつて敵だった米国と手を取り合ったベトナム。しかし、分断の傷痕は今も消えていません。「戦後」の行方を、現場から見つめます。
「サイゴン」。1975年4月30日に陥落した南ベトナムの首都の名前を冠したベトナム料理店が、団地の中にある。牛肉のフォーやベトナム風お好み焼きのバインセオが人気で、近所のベトナム人だけでなく日本人客も多い。
2000年に、店を開いた店主のグエン・バン・トアさん(65)は、店名を決めた理由について「戦争後、街の名前はホーチミンに変わったけど、誰もが親しんだサイゴンを忘れてほしくなかったから」と話した。
「死ぬかも」39人がぎゅうぎゅう詰めに
グエンさんは、当時のサイゴン近郊で生まれた。ベトナム戦争後に社会体制が変わり、迫害や「次の戦争に行かされる」ことを恐れて、18歳のときに国を脱出する決意をした。メコン川から長さ10メートルに満たない小さな船に39人がぎゅうぎゅう詰めに乗り込んで出航。「死ぬかもしれない」と思った。
3日間、海を漂流。運良く日本に向かっていた石油運搬船に救助されて、千葉県の港へ。「戦争のない平和な国に来られた」と心から安心したという。
日本語を勉強した後、建設工事現場や自動車部品工場などを転々としながら働いた。40歳のとき、ベトナム料理店で働いた経験があったベトナム人の妻と「サイゴン」を開いた。同国出身者が多くいるいちょう団地なら、やっていけると思ったからだ。「いちょう団地で初めてのベトナム料理店だった。難民の仲間たちにも喜ばれました」
ベトナム戦争後の50年を振り返るグエンさん。日本で生まれた子どもたちに自らの経験を語りかけますが……。記事後半では、高齢化する団地を離れていく子どもたちの背中を見つめる人たちのさまざまな思いを紹介します。
いちょう団地は1971年に建設され、神奈川県大和市と横浜市にまたがる約3600戸のマンモス団地だ。多くの外国人住民が暮らす。
ベトナム戦争後の政変を受け…