連載・日枝王国の崩壊①
性加害問題に端を発した一連のフジテレビの問題で、30年以上にわたって社長、会長、取締役相談役としてフジに君臨してきた日枝久が退任に追い込まれた。日枝王国がどのように形成され、危機を乗り越えて永続してきたのか。そしてフジはどこに向かうのか。その足跡と行方を追った。
産経新聞社会長の鹿内宏明は1992年7月21日、取締役会で突然、解任動議が出され、その地位を追われた。解任後、記者会見した社長の羽佐間重彰は「新聞の代表として不適任と判断した」と説明している。
「不適任」。それは鹿内にとって極めて不名誉な表現だっただろう。その翌日、鹿内はフジサンケイグループ議長も辞職し、グループを去った。
鹿内の義父信隆は戦後、日経連の専務理事として、高揚する労働運動に激しく対峙(たいじ)した。その後、出自の違う産経やフジテレビ、ニッポン放送を束ねたメディアコングロマリット「フジサンケイグループ」をつくり上げ、娘婿の宏明はその3代目だった。
だが、世襲によるグループ支配は、クーデターによってあっけなく終止符が打たれた。そして「楽しくなければテレビじゃない」と標榜(ひょうぼう)するフジテレビ社長、日枝の時代が始まった。
92年6月まで産経の社長だった植田新也は、同じグループとはいえ、あまり言葉を交わしたことがないフジ社長の日枝から突然「宏明さんをどうお考えですか」と尋ねられて面食らった記憶がある。「産経の経営で精いっぱいで、努めて雑音は聞きたくなかったんだけど」。そう前置きして植田は20年前、取材に対して「あれは全部、日枝さんだよ」と打ち明けた。「僕にはとても宏明さんを追い出そうなんて発想は思いつかなかった」
後に産経の副会長になる近藤…