逆転、逆転、逆転。学校創設わずか3年目の県立校、甲西(滋賀)のスリリングな勝利に、1985年の夏の甲子園は沸いた。
開校にグラウンドの工事が追いつかず、部員が石拾いをしながら練習を重ねたエピソードが、ファンの共感を一層呼んだ。
旋風のきっかけは、県岐阜商との初戦の2回戦にあった。
一回表の守りで内野が3失策し、2点を先行されたが、裏の攻撃で3点を挙げて逆転した。隣県の伝統校を相手に最初から攻撃がつながり、手ごたえをつかんだ。二回以降も着実に得点を重ね、7―5で競り勝った。
久留米商(福岡)との3回戦は0―0のまま、延長戦にもつれた。十一回、甲西は1点を先行され、裏の攻撃も2死一、二塁まで追い詰められたが、4番石躍(いしおどり)雄成の詰まった打球が二塁手の頭を越え、適時打となって追いついた。
さらに一、三塁から二盗を企てた石躍を刺そうとした久留米商捕手の送球が外野へ抜け、三塁走者が生還してサヨナラ勝ちした。
東北(宮城)との準々決勝も劇的な幕切れだった。八回に追いつかれ、九回に1点を勝ち越されたが、その裏に2点を挙げて2試合連続でサヨナラ勝ちした。
東北のエースだった佐々木主浩はのちにプロ入りし、1998年に横浜(現DeNA)のリーグ優勝、日本シリーズ制覇の原動力となって「大魔神」と呼ばれたが、その剛腕に甲西は14安打を浴びせた。右打者の徹底した右打ちは迫力があった。
桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」がいたPL学園(大阪)との準決勝は2―15で敗れ、滋賀県勢初の決勝進出はならなかった。
だが、1979年に比叡山が勝つまで夏の甲子園の白星がなく、強豪ぞろいの近畿で肩身が狭かった滋賀にあって、公立の甲西が見せた快進撃は地元のみならず、全国の野球少年に「やればできる」という勇気を与えた。