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市川清忠さん(写真左)と昭和20年代の市川さん(本人提供)
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 敗戦後、空襲で焼け出された人らであふれた東京・上野駅地下道。そこには「浮浪児」と呼ばれた数多くの戦争孤児の姿もあった。地下道の住民を支援しようと上野に通った100歳の男性が、当時の記憶を語った。

 「上野界隈(かいわい) 見聞録」

 6月に100歳になった市川清忠さん(千葉県四街道市)から、そんな表題の手紙が朝日新聞社に届いた。

 市川さんは、神奈川・横須賀の基地で訓練中に終戦を迎えた。戦後、キリスト教徒となり、知人の牧師に「上野での説教を手伝って」と頼まれたのが、地下道訪問のきっかけだった。

 終戦から約2年が過ぎた頃だったという。

 「地下道にはひどい悪臭、死臭といってもいいような臭いが漂っていました。乳児から高齢者まで、200~300人ぐらいいたと思います」

 説教をする牧師のそばで、進駐軍からもらったキャンディーを配り、人集めをするのが市川さんの役割だった。

 市川さんは、1945年3月の東京大空襲の体験者だ。東京都江戸川区にあった実家は焼け落ち、家族ともども避難した川の水をかぶり、かろうじて生きのびた。

 地下道の住民らの境遇は、ひとごととは思えなかった。

 その後、市川さんは1人で地下道に通うようになった。「上野地下道生活者救済同盟」という名刺をつくり、そこで寝起きする人の話を聞いたという。

 「戦争孤児もたくさんいました」。孤児の多くは、鉄道の乗客に弁当やお金をもらったり、置き引きなどの盗みをしたりして、生き延びていた。

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 「モク拾い」「靴磨き」などで日銭を稼ぐ子もいた。

 「モク拾いは、たばこの吸い残しを拾い集めることです。中身をほぐして、薄い紙でまき直して売るのです」

 地下道には「しきり役」がいた。

 ゴザの貸し出し、暖を取るたき火の提供(いずれも有料)などをしていた。進駐軍の残飯でつくる残飯シチューを売りに来る人もいた。

 「僕も食べたけど、肉が入っているからおいしかったですよ」

 忘れられないのは、乳飲み子を胸に抱いて座っていた高齢女性のことだ。60代か70代に見えた。

 乳児の両親は亡くなったと思…

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