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南陽工業高校や光高校を率いて4度の甲子園出場を果たした宮秋孝史さん。現在は光高校で保健体育の非常勤講師を務めている=2025年6月16日午前11時48分、光市光井6丁目の光高校、三沢敦撮影
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 高校野球の発展と選手の育成に尽くした指導者を日本高校野球連盟と朝日新聞社が表彰する2025年度の「育成功労賞」に、山口県内からは宮秋孝史さん(62)が選ばれた。南陽工業高校や光高校を4度の甲子園に導いた宮秋さんに、高校野球への思いを聞いた。

 旧大和町(現・光市)の生まれ。長嶋茂雄さんや王貞治さんが活躍していた時代、幼い頃から野球に明け暮れ、光高校へ進学した。

 ポジションは遊撃手や二塁手。主将も務めた。甲子園には行けなかったが、厳しくも温かかった当時の監督に心打たれ、指導者の道を志す。福岡大を経て、体育の教員になった。

 1987年、2カ所目の赴任先だった防府西高校で、野球部の初代監督を任された。

 創部したばかりで練習グラウンドはなく、「ゼロからのスタートでした」。学校近くに借りた工場の敷地へ自転車で通い、練習を積んだ。

 時間をかけて、練習環境を整え、県大会で上位に進出するようになった頃、南陽工への転勤が決まった。92年春のことだった。

 託されたのは、故・津田恒実さんを擁して出場した78年以来の甲子園切符。「誕生したばかりのチームを率いるのとは違って、周囲の期待度も高い。プレッシャーがありました」

 伝統校の重圧のなか、2000年と06年の選抜大会に出場した。監督を後任に託した06年の選手権大会は、部長としてチームを率いた。

 南陽工の後、光に赴任すると、23年の選抜大会に初出場。母校に甲子園での初勝利を届けた後、定年退職した。

 指導者として歩んだ約37年、「不思議だなあ」と思うことがしばしばあったという。

 「すごい選手がそろった。こいつらとなら甲子園に行ける」と喜んだチームが伸び悩んだ。逆に「大丈夫か」と嘆くチームに勝利は舞い込んだ。

 00年の選抜に出場した南陽工のチームは、エースの球速が117キロしか出なかった。それでも捕手の巧みなリードや、一人ひとりが役割をこなす全員野球で甲子園の切符をもぎとった。

 23年の選抜で1勝した光のチームは「発足当初はもうボロボロで……」。秋の県大会でもエラーが絶えず、何度もさじを投げかけた。ところが、危うい試合をどうにかしのいで勝ち上がるうちに、「大化け」。中国地区大会での準優勝、さらには、選抜大会出場につながった。

 「勝利をめざして野球の技を磨く一方で、人間としても成長しなければいけない」。それが指導のモットーだ。

 人間としての確かな成長がともなっていれば、大事な試合に負けたとしても、次の人生のステージで生きてくる。そう思う宮秋さんは、甲子園をめざす選手たちにこんな言葉を贈りたいという。

 進学したり、就職したりした時、「さすが高校で野球をやってきただけのことはある」と言われるように。人間を磨く夏の大会にしてほしい――。

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