Smiley face
写真・図版
読谷村の海岸沿いの光景。米軍の猛攻撃で護岸は破壊された。日本軍は丘陵地帯へ逃げ、米軍は大した被害も死傷者も出さずに浜に上陸したという(1945年4月1日撮影、沖縄県公文書館提供)
  • 写真・図版

 6月23日は沖縄「慰霊の日」です。1945年のこの日、沖縄で日本軍の組織的な戦闘が終結したとされます。80年後の現代でも当時の日本軍や政府への批判はやみません。5月に「完全版 沖縄戦 大戦略なき作戦指導の経緯と結末」(中央公論新社)を発表した防衛省防衛研究所戦史研究センターの齋藤達志2等陸佐は「史料に基づいて沖縄戦の実相を知り、再び同じ悲劇を繰り返さないことが大切」と語ります。

 ――沖縄戦が始まる前、軍と住民の関係はどうだったのでしょうか。

 陸軍第32軍の兵士約6万人は、44年3月から8月ごろにかけて沖縄に到着しました。部隊はそれぞれの防御地域に駐屯して陣地構築や訓練を行いました。

 しかし、防御地域は県民の生活の場でもあり、軍司令部や師団長などが軍紀厳正を訓示、指導しても、たびたび問題が起きました。陣地と私有地の重複、住民による食料の供出、徴用の給与支払いを巡るトラブルなどです。

 時間が経つにつれ、米軍の空襲などに十分対応できない軍に対する不満と失望が、住民の間に表面化していきました。

【連載】読み解く 世界の安保危機

ウクライナにとどまらず、パレスチナ情勢や台湾、北朝鮮、サイバー空間、地球規模の気候変動と世界各地で安全保障が揺れています。現場で何が起き、私たちの生活にどう影響するのか。のべ350人以上の国内外の識者へのインタビューを連載でお届けします。

 ――事前の島外への疎開や島…

共有