Smiley face
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機械を入れても最後は手植えでいじましく

記者コラム「多事奏論」 本社コラムニスト(天草)・近藤康太郎

 田植えが終わり、ひと息ついた。

 ど素人百姓も12年目、田植え機の操作が上達した。苗を踏みつぶさぬ限界まで、隣に植えた列に車輪を寄せる。華麗な幅寄せ運転。田植えのあとは補植(ほしょく)だ。機械が植え逃した列に、苗を指でさして歩く。小型の手押し田植え機でも植えられない隅っこの空白地帯がある。手作業で埋める。狭い田をくまなく使う。

 自分で書いていてあれだが、いじましい百姓である。

 ここらあたりの棚田の百姓は、秋の稲刈りの数週間前、まだ水にぬかるむ田の端っこ数列だけ、刈るのではなく、掘った。根に泥のついた稲を脇によけた。掘った穴は溝にする。田を乾かすため、水を落とすのである。

 それなら最初から溝を掘っておけばよいはずだ。わたしはそうしている。昔の百姓がそうしなかったのは、たった数列でも苗を植えるスペースを惜しんだから。茶わん数杯分を余計にとりたいがための、腰が砕ける重労働だ。

 こんなところをアメリカの農家に見られたくない。「おまえら、なにやってんだ?」。笑われるに決まってる。

 輸入義務に基づく外国産米が前倒しで入札された。米の価格が高止まりしているためだ。「なし崩し的に輸入解禁。日本の米作は壊滅する」といった不安の声が、SNSほかで噴出しているらしい。「稲作は日本文化の基層だ」とわたしに危機感を伝えてくる知人もいた。

 しかし、米百姓の立場でついでながら申し上げると、日本は瑞穂(みずほ)の国ではない。日本の国土が稲作に適しているというのは、じつは、美しい神話だ。

 植物である稲を、「工業製品…

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