現場へ! 壊された朝鮮人追悼碑(3)
「朝鮮、中国などアジアを侵略したことへの反省でした。それなのに……」
群馬県立公園群馬の森(高崎市)の片隅にあった朝鮮人追悼碑が、跡形も無くなった。更地になった現場を見た矢中幸雄さん(82)は、涙があふれでて、耐えられなくなった。
「あれだけ苦労してつくったのですから」
戦後50年を迎えた1995年ごろだった。慰安婦にされた女性の支援にかかわり、地元に残されている歴史に目をむけた。鉱山やトンネル、軍需工場など戦時中に朝鮮人が働かされていた場所へ、郷土史の本などを手がかりに証言をもとめて尋ね歩いた。当時はまだ、聞きにいけば、宿舎として使われた建物を教えてくれる住民が健在だった。
矢中さんらは、市民の手で証言や記録を掘り起こす作業を続けた。軍需工場だった中島飛行機に関連した資料にあたった。トンネル近くの寺の過去帳や埋火葬の名簿には、出身地に朝鮮半島の地名が書かれた人々の名前や亡くなった理由が載っていた。
「慰霊は人間として当たり前」
なぜ彼らは異国の地で命を落…