片岡城(2)
奈良県上牧町にある片岡城について、話を続けたい。1577(天正5)年10月2日付で織田信長が長岡(細川)与一郎(忠興)に与えた自筆感状は「(忠興からの)手紙を見た。いよいよ働くように。油断なく励むべきである。働きは手柄であった」と記した。このとき忠興は15歳。父の長岡(細川)藤孝に従って片岡城攻めに加わり、弟の興元と一緒に城への一番乗りを果たし、先頭に立って城を攻め落とした。
片岡城は、松永久秀が本拠にした奈良県平群町の信貴山城を守った支城のひとつで、信貴山城から大和川を挟んだ南東4kmにある標高90mほどの丘の上に位置した。そして片岡城と信貴山城の間には、王寺町の馬ケ背城、三郷町の立野城など複数の砦(とりで)と支城があって、重層的に信貴山城の守りを固めていた。
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