1945年8月14日、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の工場に、米軍機から1発の爆弾が落とされた。国産乗用車の量産をめざした創業者たちの夢は、戦争に振り回された。その黎明(れいめい)期の苦労を今も社員に伝え続けている。
創業時の工場、その姿は
同社は創業翌年の38年、現在の本社工場にあたる「挙母(ころも)工場」を愛知県挙母町(現豊田市)に建設した。
当時の工場を詳しく再現したジオラマが本社地区(同市)の旧事務本館の一室にある。展示を企画したシニアキュレーターの布垣(ぬのがき)直昭さん(67)は、「ジオラマを見ると、創業者の豊田喜一郎の考え方がよく分かります」と話す。
生産棟は、工程に沿って効率よく並んでいる。出荷前に製品を検査するためのテストコースは門の近くにあった。「トヨタ生産方式につながる効率的なしくみを、当時から考えていたことに驚きます」。生産能力は月2千台。当時の日本全体の自動車販売台数に匹敵した。
敷地やその周辺には、男女別の社員寮や社宅、病院、豊田工科青年学校(現トヨタ工業学園)などが置かれている。四つの食堂や「トヨタ百貨店」と呼ばれる売店、野球場やプール、相撲の土俵などもあり、数千人が住む「まち」として建設された。
だが、乗用車の生産を始めた矢先、戦争の影が忍び寄る。39年には民間用の乗用車生産が国の通達で禁止され、物資を運ぶトラックや軍用車しか作れなくなった。その後、「護国第20工場」として、国の管理下に置かれた。
そして終戦前日、米軍機から爆撃を受けた。
落とされたのは模擬原爆「パンプキン」
爆弾が落ちたのは、敷地北西部にあった工作機械を作る「第1工機工場」南側の空き地。当時工場は稼働しておらず、社員に被害はなかったものの、直径20メートルほどの穴があき、爆風で周辺の建物の壁は崩れ落ちた。敷地内にある建物の4分の1ほどが破壊され、さらに広い範囲でガラス窓が割れた。
米軍関係者の証言で、「パン…