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1942年の挙母工場を再現したジオラマを説明するトヨタ自動車の布垣直昭さん。創業期の歴史を社員に伝えるため、2019年から展示している=愛知県豊田市、溝脇正撮影

 1945年8月14日、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の工場に、米軍機から1発の爆弾が落とされた。国産乗用車の量産をめざした創業者たちの夢は、戦争に振り回された。その黎明(れいめい)期の苦労を今も社員に伝え続けている。

創業時の工場、その姿は

 同社は創業翌年の38年、現在の本社工場にあたる「挙母(ころも)工場」を愛知県挙母町(現豊田市)に建設した。

 当時の工場を詳しく再現したジオラマが本社地区(同市)の旧事務本館の一室にある。展示を企画したシニアキュレーターの布垣(ぬのがき)直昭さん(67)は、「ジオラマを見ると、創業者の豊田喜一郎の考え方がよく分かります」と話す。

 生産棟は、工程に沿って効率よく並んでいる。出荷前に製品を検査するためのテストコースは門の近くにあった。「トヨタ生産方式につながる効率的なしくみを、当時から考えていたことに驚きます」。生産能力は月2千台。当時の日本全体の自動車販売台数に匹敵した。

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挙母工場を再現したジオラマ=愛知県豊田市、溝脇正撮影

 敷地やその周辺には、男女別の社員寮や社宅、病院、豊田工科青年学校(現トヨタ工業学園)などが置かれている。四つの食堂や「トヨタ百貨店」と呼ばれる売店、野球場やプール、相撲の土俵などもあり、数千人が住む「まち」として建設された。

 だが、乗用車の生産を始めた矢先、戦争の影が忍び寄る。39年には民間用の乗用車生産が国の通達で禁止され、物資を運ぶトラックや軍用車しか作れなくなった。その後、「護国第20工場」として、国の管理下に置かれた。

 そして終戦前日、米軍機から爆撃を受けた。

落とされたのは模擬原爆「パンプキン」

 爆弾が落ちたのは、敷地北西部にあった工作機械を作る「第1工機工場」南側の空き地。当時工場は稼働しておらず、社員に被害はなかったものの、直径20メートルほどの穴があき、爆風で周辺の建物の壁は崩れ落ちた。敷地内にある建物の4分の1ほどが破壊され、さらに広い範囲でガラス窓が割れた。

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終戦前日の8月14日に爆撃を受けた挙母工場内の着弾場所付近。土が盛られ桜の木が植えられていた=2025年6月24日、愛知県豊田市、溝脇正撮影

 米軍関係者の証言で、「パン…

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