千利休の流れをくむ茶の湯の文化を世界に広めた裏千家の前家元の千玄室(げんしつ)さんが亡くなった。特攻隊の生き残りとして、平和を訴え続けてきた。102歳の生涯を閉じたのは、戦後80年の終戦の日の前日、14日だった。
長男で家元の宗室(そうしつ)さんが14日夕、コメントを発表した。それによると、千さんは5月に転倒し、腰を強く打った。そのころから歩くのが困難になり、入院した。リハビリは順調だったが、この数日は全身の機能が少しずつ低下してきたように見えたという。
13日夜、看護師と会話をした直後、突然呼吸不全をおこし、そのまま亡くなったという。
宗室さんは「多くの皆様方から御縁をいただいたことを父になりかわり御礼申し上げます」とコメントを結んだ。
宗教学者の山折哲雄さん(94)は「日本の伝統文化を真に代表する人であり、日本の文化を世界中に伝えた。これほどの仕事をした人は戦後日本に存在しない」と偲(しの)んだ。
各国のリーダーへの影響力も大きかった。「世界のリーダーが千さんにお茶を点(た)ててもらうためにやってきて、千さんの話を聞く。並みの外交官ができる仕事ではない」とたたえた。「一盌(いちわん)からピースフルネスを」という言葉を自身で体現し続けたことに敬意を表した。
社会に大きな影響を与えたのは千さんの「俗物性」によるものだと分析する。「豊臣秀吉と渡り合った千利休の俗物性とよく似ている。特攻で亡くなった戦友たちの無念を抱いて生きていく覚悟があった。悟ってはいられない。だから聖人ではなく、奥の奥まで見抜く、猛獣のような目をしていた」
最後に会ったのは今年3月。千さんが理事長を務める糺(ただす)の森財団の理事会だった。山折さんに歩み寄り、耳元で「まだ元気なんだよなあ」とつぶやいたという。山折さんは「よくぞ、ここまで生きたというある種の感慨と、そろそろ向こうに行きたいよなあという気持ちの両方がにじみ出ていた」と振り返る。
「千さんほどの存在を一言で表す言葉は思いつかない。ただ、戦後80年の節目に亡くなられたことは、単なる偶然ではない気がする」
清水寺(京都市東山区)の森清範(せいはん)貫主は「戦争の何たるかを語ることのできる最後の世代のお一人だった。とても残念です」と悼んだ。
千さんは戦時中の1943年に学徒出陣した。志願して特攻隊に入ったが、待機命令が出され、出撃することなく終戦を迎えた。森さんは千さんからこんな体験を聞いたことがある。
特攻隊の仲間たちは不帰の客となることをわかっていながら「俺が無事に帰ってきたら、お前さんとこの茶室で、茶をたててくれよな」と言い残し、飛び立っていった。
戦後、千さんが茶室にいると、誰も入ってくるはずがないのに一陣の風が吹き抜け、「ああ、あいつが、帰ってきたんだな」と思った。そんな話だったという。
千さんは世界各地で献茶し、世界平和を願った。茶の心を表した「和敬静寂(わけいせいじゃく)」という言葉を大切にした。
森さんは「和は調和の和です。茶は対面でたてる。茶を介して人と人が出会い、親しみが生まれ、互いの理解が深まる。それが平和の礎になることを生涯をかけて実践されたと思います」と話した。
京舞井上流五世家元で、人間国宝の井上八千代さんは「いつまでも、ずっとお元気でいていただけると思っていた。慈愛に満ちた温かい方。大きな支えをなくして寂しい」と偲んだ。
最後に千さんに会ったのは、今年4月にあった祇園甲部の舞踊公演「都をどり」のときだ。健康のためにゴマを食べていただきたいと、木製のゴマすり器をプレゼントした。とても喜んでいたという。
「ご自分の戦争体験から何より和を大切にし、日本はかけがえのないものを持っている、力でなく文化をもって世界に出て心を通わせるという発想があった。どこで会っても、背筋を伸ばしておられ、たたずまいを見習いたいと思う方でした」と話した。
歌人の藤原俊成(しゅんぜい)、定家(ていか)親子の流れをくむ歌道の冷泉(れいぜい)家(京都市上京区)の冷泉貴実子さんは「巨星墜(お)つ、という感じです」と語った。体調を崩したと1カ月ほど前に聞き、心配していたという。
「お茶の世界では、もちろん大きな存在でしたが、戦争のことを語り、平和を希求し、『戦争はあかん』と繰り返しおっしゃっていた。京都の誇りでした」と話した。
西脇隆俊知事は「知事就任後初めての初釜でにこやかに微笑(ほほえ)みかけて頂き、私の緊張を解きほぐしていただいたことが、昨日のことのように感じられます。いただいたご薫陶を胸に、これからの時代の京都の未来づくりに邁進(まいしん)してまいります」とのコメントを出した。
京都市の松井孝治市長は「6月に京都の強みや未来像について対談させていただいたばかりで、これからも一層、多岐にわたる分野についてご指導を賜りたいと思っておりました。ご功績に改めて心から敬意と感謝の意を表します」というコメントを発表した。
京都銀行を傘下に持つ京都フィナンシャルグループの土井伸宏社長は今の家元の宗室さんと小中高校の同級生だ。「幼少期に温かく接してくださったお姿を思い返しますと、残念でなりません。私が京都銀行に入行して今日に至るまで常に応援していただき、深く感謝しております」との談話を出した。
徳島白菊特攻隊の慰霊碑に碑文
特攻隊の前線基地となった鹿児島県鹿屋市串良町の平和公園に昨年9月、「徳島白菊特攻隊」の慰霊碑がたった。碑文には、こうある。
「慎んで哀悼の意を表すと共に 戦没者の遺徳を後世に語り伝えてまいります」
この碑文を手がけたのは千さんだった。
千さんは同志社大学に在学中、学徒出陣した。訓練を受けた徳島海軍航空隊に1945年4月、徳島白菊特攻隊が編成された。翌5月から計5回の出撃で、56人の若い隊員が命を落とした。千さんも志願したが、出撃することなく終戦を迎えた。
徳島白菊特攻隊を語り継ぐ会会長の山下釈道さん(62)によると、千さんは除幕式で慰霊碑に敬礼し、空を見上げ「いい場所にできた」と語りかけた。山下さんには「後は頼むよ」と声をかけたという。
山下さんは「仲間を失ったという、当事者にしかわからない深い感情を感じた。『一盌(いちわん)からピースフルネスを』を提唱し、お茶の活動を通じて平和の大切さを伝えられた。その精神を、これからも伝えていかなければ」と話す。
慰霊碑を発案したのは、白菊特攻隊の第2陣でおじを亡くした東京都在住の相田博司さん(64)。昨年3月、靖国神社で営まれた式典で千さんと話す機会があり、おじの話を伝えた。
相田さんは「慰霊碑の計画を伝えると『おお、白菊か。本当は我々がすべきことをしてくれている。ぜひ実現してほしい』とおっしゃった。碑文の依頼も快く受けてくださった」と振り返った。