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小倉和夫さん

 石破茂首相がその言葉にこだわる「敗戦」から80年。日本は植民地支配と侵略によって多くの犠牲者を出し、苦痛を与えたアジア諸国といかに向き合ってきたのか。1972年の日中国交正常化の際に外務省中国課の首席事務官を務め、ベトナムや韓国の大使も歴任した小倉和夫さんに、来し方をふり返ってもらった。

 ――戦後の近隣外交は山あり谷ありでした。

 「のっけから何ですが、実は私、明治以降とか戦後とかでアジアとの外交を考えるのは間違いだと考えているんです。欧米の外交史の中でとらえるから、近代にばかり注目するけれど、中国とか朝鮮とかとはそれこそ卑弥呼の時代から付き合ってきた。それはれっきとした外交だったわけです。東南アジアとだって、江戸時代初期に山田長政らが付き合っていました」

 「なぜそんな昔のことが重要なのか。それは国内政治と密接に結びついてきたからです。たとえば朝鮮。古くは8世紀、藤原仲麻呂は新羅征討を計画しますが、それは国内の行き詰まりの打開を図ったためです。明治の征韓論も、封建時代が終わって武士があふれる中、不安を外にそらす意図がありました」

 ――そういった経緯の上に日本のアジア外交があると。

 「そうです。明治から第2次世界大戦までは、いわば二つのアジアがあったと思います。後進的とみなした欧米が作ったアジアと、『大東亜共栄圏』にいたるまでの日本が作ったアジア。いずれも政治的概念として『作られたアジア』でした。ところが第2次大戦後は植民地支配などからも解放され、『存在するアジア』になりました」

 「戦後、その『存在するアジ…

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