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船上でスタンダードジャズを演奏しながら、道頓堀川を運航する「とんぼりリバージャズボート」=2025年8月1日、大阪市内、定塚遼撮影

「100年をたどる旅~未来のための近現代史」日米編⑫

 街の灯が浮かぶ道頓堀の川を、小さな船が下っていく。船上では、ジャズが演奏される。大正末期をしのび、2012年から運航されている「とんぼりリバージャズボート」。演奏曲のほとんどが1920年代のスタンダードナンバーだ。当時も同じ曲が、町に響いていただろうか。100年前、この地ではアメリカから入ってきたばかりのジャズが鳴っていた。

 「道頓堀周辺を、ニューオーリンズのようだと思った一時期がある」。NHK朝ドラ「ブギウギ」の題名の由来にもなった「東京ブギウギ」や、「蘇州夜曲」で知られる作曲家の服部良一(1907~93)は、自著でそうつづる。ジャズのルーツとして知られ、町に音楽が響く米ニューオーリンズを重ね合わせた。川沿いに立ち並ぶダンスホール。騒がしく奔放な音がこだまする。大阪・道頓堀は、日本のジャズの中心地だった。

 「これが、ジャズというものか」。服部は、大阪の料亭・灘万(現・なだ万)での演奏を、何度も聴きに通った。灘万をはじめ、料理屋や百貨店が、店内演奏のためにバンドを抱えていた。服部はうなぎ店の少年音楽隊に入り、ジャズも演奏するようになる。

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作曲家の服部良一=1977年、東京・品川区の自宅

 クラシックのオーケストラにも加わっていたが、1936年のある日、クラシックの恩師に、進む道を伝える。「ジャズが好きでやめられないのです。将来は、生活のためにポピュラーソングの作曲家として生きていきたい」

アメリカ由来の曲がヒット、流行歌のひな型に

 服部はその後、ジャズをベースに、ブギやブルースといった米国由来の音楽を取り入れた曲をヒットさせ、日本の歌謡曲のひな型を作っていく。

 音楽プロデューサーで評論家の朝妻一郎氏は「アメリカの音楽を取り入れようとした服部良一さんの存在が、日本の音楽史の分岐点だった」と語る。「最初の大ヒットは『別れのブルース』で、詞は日本語だけど、音階もリズムも、全部西洋音楽だった。戦前にこういう音楽が流行して歌謡曲の形ができたのは、日本の音楽にとって非常に大きな出来事だった」

 もともとの日本の伝統音楽は…

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