昭和初期に黄金期を迎えた鉄道は、戦時体制下で軍事輸送を担う「戦力」へと変貌(へんぼう)した。やがて戦局が悪化して米軍による本土空襲や艦砲射撃が始まると、鉄道施設や走る列車は格好の標的となった。
浜松市内のJR東海浜松工場。新幹線をメンテナンスする検修庫には、戦前の建築物から利用され続けている鉄骨の柱がある。塗り直されてはいるが、地上2メートルほどでぐにゃりとゆがみ、30センチ前後の穴が二つ開いている。1945年7月、遠州灘の米英軍艦から撃ち込まれた艦砲弾の痕跡だ。
12年創設の浜松工場は、蒸気機関車の製造から修繕まで行う重要拠点だった。53年発行の「浜松工場四十年のあゆみ」によると、45年4月に爆弾、6月に焼夷(しょうい)弾による空襲被害の後、7月29日夜、1時間以上にわたる艦砲射撃を受けた。工場内には130発以上が命中し、「廃虚同然の姿となった」という。
80年前に終わった昔話ではない。2016年8月、工場のリニューアル工事中に長さ153センチ、直径41センチ、重さ860キロの不発弾が見つかった。
同年12月、周辺住民に避難勧告が出され、東海道新幹線が一時運転を見合わせる中、陸上自衛隊が不発弾を海岸まで運び、爆破処理した。工場内で不発弾が見つかるのは1977年以来6回目で、いずれも約1トンの重さがある艦砲弾だという。
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