終戦間際の1945年8月6日。青森県八戸市の藤田和矩(かずのり)さん(79)は、広島で暮らしていた母のおなかの中で被爆した。その事実を知ったのは10代の半ばになってからだ。被爆から80年、核兵器をなくすため、今も声を上げ続ける。
岐阜県への高校進学のために親元を離れる際、父が取得してくれた被爆者健康手帳で自分が胎内被爆者だと知った。
母・俊子さんが被爆したのは、原子爆弾が落とされた広島市の爆心地から1.5キロほどの自宅。原爆によって崩れ落ちた屋根の下敷きになり、下半身に大やけどを負った。
母は終戦後の46年3月に藤田さんを産んだが、その半年後に亡くなった。まだ21歳だった。生後わずか半年だった藤田さんに母の記憶はない。
母の死後、父の出身地の八戸に移った。父は戦争や原爆のことを語ろうとせず、母の話は祖父母や親戚から聞いた。
藤田さんも妻や子たちに、自分が胎内被爆者であることを話してこなかった。「いい話じゃないから、言いたくなかった」。家族は、被爆者宛てに国から届く手紙で知ったようだ。
「青森県原爆被害者の会」で会長を務め、依頼を受けて人前で自身のことを話すようになった。理由は一つ。「俺みたいにならないでほしいから」
藤田さんは生まれたとき、左の腕や足がただれていた。4歳まで立って歩けず、小学校は1年遅れで入学した。原爆のせいかは定かでないが、30代で歯がすべて抜け落ちた。高齢になって腎臓にがんを患い、人生の終わりを覚悟したこともある。がんは克服したが、今はまっすぐ歩くこともままならない。
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