野田秀樹さんは約半世紀、現代演劇の最前線を走り続けている。その作品は、深い思索を、遊び心あふれるせりふの応酬と身体の躍動、ダイナミックな視覚効果で表現し、観客を魅了してきた。敗戦の10年後に生を受けた劇作家・演出家・俳優が見つめてきた時代とは。思い描く未来は。
――10年ほど前、野田さんが「人が何かを受け止める順番は『感じる・考える・信じる』のはずなのに、最近は『考える』が抜け落ちて、『感じる・信じる』が直結しているのではないか」と指摘したことが強く印象に残っています。
「私なかなか良いことを言いましたね。考えることが面倒なのか、手続きとして重要でないと思っているのか、ますます『感じる・信じる』になってきている気がします。SNSで見たことがすぐに信念になる、みたいなことも起きていますし」
――野田さん自身は、「感性」が当時のキーワードだった1970年代後半から80年代にかけて「若者演劇の旗手」として注目されましたが。
「当時はフィーリングとか言って、『感じる』が重視されていましたが、私はそれが気持ち悪かった。それでも演劇で『考える』を前面に出さなかったのは、60~70年代の学生運動を少し下の世代として見ていて、考え過ぎた人たちの不幸を目の当たりにしたことが大きかったからだと思います」
「既成の権威への反発は若さの特権で、それは今も変わらない。若い人口が多かったこともあり、大きな連帯が生まれ、世界を変えられるのではないかという夢があった。自分の思いもそちら側にありました。でも、72年、『あさま山荘事件』が起き、直後に連合赤軍内での残忍な内ゲバ殺人が明らかになった。これは絶対ついていけないと思った。それを上の世代がきちんと総括していないことに不信感も募った。この体験はその後、自分が理想について考えるのに影響していると思います」
――野田さんの演劇は、言葉遊びの多用、例えば「世界の果て」と「はて?」が重なり、視界が広がって、観客は思いもよらない場所へ連れてゆかれる。特に初期はその傾向が強く、「面白いが、分からない」と言われました。
「演劇を始めた頃、テーマ主義の芝居が圧倒的に多く、それが自分には面白くなかったので、方法を見せることで演劇を作ろうと考えました。テーマを否定するわけではないけれど、例えば、戦争がテーマなら、実際に体験した人が書けば、それで十分ではないかと思っていた。自分には語るべきことなど何もないのかもしれない、という不安もありました」
「とはいえ、テーマがないわけではなく、いろいろなイメージの中で語ってきたつもりです。例を挙げると『野獣(のけもの)降臨(きたりて)』は、神話の世界から差別の問題に行き着く。お客さんはそこまで考えてくれると信じていたし、実際、そういう人は多かったと思います。俳優の古田新太は高校生で、『訳が分からなかったが、何か考えなくちゃいけないと思った』と、戯曲を読み、勉強したそうです、ああ見えて」
――徐々にテーマの輪郭が見えやすい作品が増えています。
「自分には大したものを書く資格がないという認識は20代の頃から変わらないんです。ただ最近は、自分が1955年からいままで生きてきて、強く憂慮していることについて、この人の存在に、このモチーフに背中を押してもらえば書ける、書くべきだと思えたことを、一つ一つ芝居にしています」
――生きてきた時代とは。
「日本の戦後です。幼い頃か…