現場へ! 復興へのともしび(1)
海そばの小中学校跡から山側の国道まで、緩やかな坂道が続く。14年半前の東日本大震災の津波避難で、子どもらが駆けた約2キロの道だ。全壊した学校跡は復興でラグビー場に変わった。
岩手県釜石市の元市職員佐々木守(70)は今年7月、ここで、東京都荒川区の中学生たちに避難を追体験してもらう予定だった。夏休みの防災研修の一コマだった。
だが、前日のロシア・カムチャツカ半島沖地震で中止に。釜石でも最大50センチの津波が観測された。
佐々木は震災時、市防災課長だった。犠牲者の遺族からは責任を追及された。
なじみの居酒屋「お恵(けい)」に震災後初めて行ったのは被災から9カ月後。人目を避けてカウンターの端に座った。
鉄のまちの名物・呑(の)ん兵衛横丁の代表店だ。菊池悠子(86)が62年間、1人で営んだ。地域を動かす製鉄所や市役所の客でにぎわった。震災後は仮設で再開していた。
佐々木はよく、全国からの応援職員や支援者らを連れてのれんをくぐった。店で育んだ人脈は太い。これまで全国の自治体や企業の防災研修で講師を務めた機会は100回を超える。7月も同じだった。誰も命を落とさない、落とさせないで、と伝える。
「反省も含めてすべて伝える。多くの犠牲を出した当時の防災責任者として」
記事の後半では「お恵」の最後の日に密着した動画もご覧いただけます
「挫折を希望へつなげた地域」
東京・本郷の東大キャンパス…