「坊主丸もうけ」などと僧侶は揶揄(やゆ)されてきた。固定資産税をはじめ非課税への批判も尽きない。ただ、人は病や死に向き合うとき、心の支えを求める。宗教は必要なはずなのに、不信が募るのは、なぜか。全日本仏教会や日本宗教連盟の理事長を務め、現在は世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会理事長の戸松義晴さん(70)に聞いた。
――坊主丸もうけって本当ですか?
宗教法人の多くは家族経営で規模が小さく、決して裕福ではありません。全日本仏教会や文化庁が調査していますが、年収500万円以下の宗教法人は全体の約7割に上ります。宗教法人の収入だけで生活するのは難しく、兼業をしながら宗教法人を支えています。
ただ、高級車に乗って、ぜいたくな暮らしをしている宗教者は、ごく一部ですが存在します。宗教界が自主的に改善すべき課題です。
なぜ、ごく一部の宗教者が目立つかといえば、宗教者のぜいたくを誰もが快く思っていないからです。宗教は欲望を拡大するものではなく、「足るを知る」と説きます。修行を積んだ宗教者には、極端にぜいたくな生活ではなく、極端に貧しくもなく、仏教でいう「中道」を求めています。
――課税すべきだという声もあります。
宗教活動に対しては原則非課税です。固定資産税も免除されています。ただ、宗教者は税金を1円も払っていないかといえば、そうではありません。宗教法人から給料をもらい、所得税も住民税も払っています。普通の給与所得者と一緒。控除が認められるのは社会保険料や医療費などです。
宗教活動に課税すべきかどうかは社会が判断することです。その根拠の一つとなる宗教法人の収入や使い道が明らかにされていないことへの不満が根強い。医療法人や社会福祉法人は公開しています。宗教法人も収支や事業計画、事業報告などを公開するのが当然です。
ただ、情報公開で信教の自由が侵害されてはいけません。一件一件のお布施の額を示せ、名前も出せ、というのはおかしい。信じることを行動に移すことは、誰からも干渉されるべきではありません。
もちろん信教の自由が憲法で保障されているからといって、何をしてもいいわけではない。反社会的行為は許されない。非課税の恩恵を受ける宗教法人は、宗教法人法に基づき、法令順守や透明性の確保、説明責任を果たす社会的責任があります。
宗教者の顔が浮かばない
――オウム真理教事件や旧統一教会問題など、宗教の問題が起きるたび宗教不信が言われます。
NHKの日本人の意識調査をみると、年1、2回程度は墓参りをする割合は1973年以降、6~7割で推移しています。お守り、お札を身につける割合も約3割で減っていません。一方、確実に減っているのは、礼拝やお勤めなどの宗教的なおこない、聖書・経典など宗教関係の本を読むこと。いわゆる宗教活動です。
家族が病気になって、もう無理だとわかっても、少しでも何かしてあげたいと思う。子どもの入試もどうにもなりませんが、それでも何とかしたいと思うのが親心です。お守り、お札、祈禱(きとう)、墓参りは信仰のあるなしに関わらず、人間の思いです。でも、その思いが伝統的な法要や日々のお祈りなどの宗教行為とつながっていません。むしろ葬儀や法事の形の簡素化が進みました。
――宗教界が時代の変化に追いついていないのでしょうか。
いい意味でも悪い意味でも宗教者は「伝統だ」と言います。葬儀もお布施もお墓の形も今までこうだった、と。それが求められていた時代はいいですが、意義を感じられない人が増えました。伝統を守りながらも人々の要望にどう応えていくか考えなければなりません。
菩提(ぼだい)寺の僧侶ではなく、インターネットでみつけた僧侶に葬儀や法事の読経を頼む「僧侶派遣」も広まりました。高度成長以降、地方から都会に出た人が増えても、そういう檀家(だんか)のフォローを僧侶ができていませんでした。
ネットならお布施の安い僧侶が選ばれます。葬儀代も下がる。市場経済の必然です。ただ、安ければ僧侶の質も落ちる。自称僧侶が衣を着て、葬儀でお経を唱えても法律的に問題はありません。そうではなく、多くの人に信頼されるには、僧侶が日頃から人々に寄り添い、願いに応えるような人間関係を築いておくことです。
――東日本大震災で心のケアへの関心が高まりました。
全日本仏教会の事務総長を務めていたとき、大震災が起き、大勢の方が亡くなりました。全国の若手僧侶から被災地でお経をあげたいと申し出がありました。現地の僧侶に聞くと、「方言も違い、顔の知らないお坊さんにお経をあげてもらっても誰も喜ばない」と言われました。宗派は関係なく、普段から顔の見える付き合いをしている僧侶に読経してほしい、と被災者は思っています。
東日本大震災に限らず、自然災害で亡くなるのは不条理です。なんであの人が亡くなり、自分は助かったのかと悩む。そこに合理的な答えはなく、宗教の必要性を感じた人が多かった。古来、死の問題を扱ってきたのは宗教者です。生きていく知恵を記した仏教の勉強をし、厳しい修行をした僧侶にお経を読んでほしいと思います。
死に直面したときに宗教は役に立つか、と聞いた調査があります。宗教が救いになると答えた割合は、震災前より震災後が約2割も増えました。一方、死に直面したときに誰を頼りにするか聞くと、配偶者や家族、医者は上位なのに宗教者は下の方でした。
つまり、宗教は救いになるのに、多くの人には宗教者の顔が浮かばないということです。宗教者を求めていないのではなく、日常的に宗教者と関わっていないから選択肢にも入らない。
生の延長線上にある死
――なぜ宗教者は普段から信者と関わらないのですか。
自分たちの宗派の教義の解釈がどうのこうのと、内向きの議論に特化しているからです。今でも、教義や信仰を押し付ける宗派があります。大事なことは開かれた宗教。一番の主体は宗派でも宗教者でもなく、支えてくださる檀家(だんか)や信者、社会の人たちなのに、その人たちが置き去りにされているのです。
檀家制度によって築かれてきたものをおろそかにするということではありません。そもそも檀家制度は信仰に基づいて成立していません。江戸時代に、あなたの家はどこの寺の檀家と割り振られた寺請制度がもとになっています。教えに共感して檀家になる人は少ない。
結局は、その宗教者の人柄と、信頼関係ができているかです。宗教は人を介して伝わっていく。これまでのような家と寺のつながりではなく、個と個、フェース・トゥ・フェースのオーダーメイドの関係が大事になります。
――AIをはじめ科学の進歩に、宗教はどう向き合えばいいのでしょうか。
死んだら終わりと思っている人が多い。生の延長線上に死があることにリアリティーを感じられなくなっています。確かに死んだら形はなくなります。でも、残された人にとっては、その人への思いは消えません。それが死に直面したときの大きな悲しみ、苦しみになります。
AI時代を迎え、宗教に求められるものは何でしょうか。戸松さんは「笑顔」の大切さを説きます。
科学が進歩し、ロボットやA…