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子どもの心をケアする仕事に就き、新たな一歩を踏み出した女性

Re:Ron連載「こころがケガをするということ」第12回(最終回)

 連載最終回の今回は、こころのケガを抱えている人と社会、つまり私たち一人一人がどのようにかかわっていくべきか、について考えたい。

 10年あまり前に、米国から日本に紹介された「トラウマインフォームドケア」という、対人支援に役立つ考え方がある。トラウマインフォームドケアは、連載第10、11回で取り上げた、こころのケガそのものを手当てする治療法ではなく、その人のこころのケガが、なるべく痛まないような関わりを心がける、というものだ。医療・保健・福祉・教育・司法など、あらゆる領域で採り入れられており、専門家ではない一般の人にも実践してほしい方法だ。

  • 【第10回はこちら】子どもたちが「人生を取り戻す」ために
  • 【第11回はこちら】「親のこころの深いケガ」のケアが再発防止のカギ

 というのも、第1回で紹介したように、日本人の6割がこころのケガ体験をしているのだから、こころのケガの痛みに苦しんでいる人が、私たちの周りに数多く存在するはずだからだ。とても一部の専門家だけでは対応しきれない。

  • 【第1回はこちら】トラウマ的出来事、日本人の6割が体験

 たとえば、街中で車いすが何かに引っかかって動かなくて困っている障がい者を見かけたら、専門家でなくても手助けしようとするだろう。同様のこころのケガバージョンが、トラウマインフォームドケアだ。

 しかし、言うはやすく行うは難し、だ。

身体のケガや障がい者支援と同じ

 なぜなら、こころのケガは目に見えないし、ケガをしていることや、ケガの痛みによって生じている反応に、本人でさえ気づいていないことがあるからだ。だが、基本は身体のケガや障がい者への支援と同じだ。

 たとえば、バイク走行中に道路の真ん中で転倒し動けなくなった人に遭遇したとする。その場に居合わせた人たちが駆け寄り、「だいじょうぶですか?」と尋ねる。応答があり意識はあるようだ。

 誰かが救急車を呼び、救急車が到着するまで、とりあえずその人を安全な道端まで移動させようということになった。その時あなたはどうするだろう。

 ここは危ないから救急車が来るまで道端で待ってようとその人に伝える。そして、自分で歩けそうかどうかを尋ね、難しければ、肩を貸したり、おぶったり、または、数人で運んだりするだろう。その時、身体のこの部分を持っても大丈夫か、痛くないかも確認するだろう。

 なぜ、この例では支援がスムーズにできたのか?

 まず、身体外傷があり、安全を確保するのが重要であることが、支援する側とされる側で共有されており、支援を受ける―提供することの合意が一瞬で成立している。支援する側の人たちには、頭を打ったら意識に障害が出るかもしれない、衣服の下に大きな外傷を負っているかもしれない、骨折しているかもしれない、など一般的な身体外傷についての知識があり、それがかなり痛いかもしれないことを想像することができる――。そうした条件が整っていたからではないだろうか。

見えない故の怒りから考えた

 こころのケガの支援は、この例のようにうまく進まないこともある。なぜなら、一般の人たちはこころのケガの反応についてあまり知らないし、ケガをした人が、自ら進んで支援を求めないことも少なくないからだ。このことを考える時にいつも思い出す、一つの苦い過去の体験がある。

 ある時私は、駅前で違法駐車の自転車のジャングルに迷い込み、出られなくなっている視覚障がいの人を見かけた。その人はかなりいら立っていて、手に持った白杖(はくじょう)で、自分の周りの自転車をガンガンたたいていた。私は何度か「お手伝いしましょうか?」と声をかけたが、その人の耳には届かなかった。だから、その人に近寄り後ろから肩をトントンしながら、もっと大きな声をかけた。しかし、その人は「うるさい!」と私の手を振り払い、白杖を振り上げたのだ。私はびっくりしてその場を立ち去った。

 この事件の直後、私のこころには、理不尽な目にあったという思いが込み上げてきた。

 良かれと思ってしたことなのに、逆襲するなんてひどい!

 なんて暴力的な人なんだ!

 その人に対する怒りさえもわいてきた。

こころのケガによる痛みに寄り添う

 でも時間がたって冷静になる…

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