茨城県東海村といえば、日本の原子力発祥の地。名実ともに「日本の原子力センター」として発展し、日本で最も長く原子力の恩恵を受けてきた自治体です。そのトップが東日本大震災後、誰はばかることなく「脱原発」を公言したことは、大いに驚かれました。
東京電力福島第一原発事故後に原発の運転期間は原則40年となり、延長は「極めて例外的」とされましたが、これまでに申請された4原発8基はすべて60年運転を認められました。なし崩しの原発回帰が進むなか、「脱原発」村長として当時、称賛と批判を浴びた村上達也さんは、いま何を思うのでしょうか。
子どものころは原子力が誇らしかった
――東海村にとって原子力とは、どのような存在でしたか?
「東海村は文字通り、元祖『原子力立村』です」
「日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構=JAEA)が設置され、1957年に国内初の原子炉『JRR―1』が臨界に達した歴史的な地として、教科書にも登場します。その後、第1号原発が置かれ、再処理施設、初の100万キロワット級原発、核燃料メーカー、東大の研究炉や加速器など多くの施設が集中立地し、日本の原子力開発の中心地になりました。現在、38平方キロメートルの小さな村内に11の原子力関連事業所が存在し、その合計敷地面積は村の1割以上を占めます」
「原子力関連の村税収入と補助金は、一般会計歳入の4分の1に達します(22年度決算)。75年度からの電源三法交付金の累計額は約400億円。財政力指数にして全国8位(22年度)の豊かさの源です。村を訪れる誰もが、公共施設の立派さに目を見張るでしょう」
「村と原子力は半世紀以上にわたって、密接不可分の関係でした。それはなお続いています」
――日本で初めて原子の火がともったとき、中学生だったそうですね。当時から原子力に疑問を抱いていたのでしょうか。
「まったく逆です。この田舎…