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和解の握手をする「琉球民遭難殺害事件」の被害者の子孫、上里樹さん(右)と台湾・牡丹郷のパイワン族の人たち=2024年11月7日午前11時10分、沖縄県宮古島市のカママ嶺公園、伊藤和行撮影

 近代日本が初めて海外派兵した1874(明治7)年の「台湾出兵」(征台の役)から今年で150年。明治政府が派兵の口実として利用したのが、その3年前に台湾で起きた原住民による琉球人殺害事件だった。大国に翻弄(ほんろう)され続ける台湾と沖縄双方の子孫が今、和解の交流を続けている。

 7日、沖縄県宮古島市の公園を、島から約500キロ離れた台湾の原住民族26人が訪れた。屏東(へいとう)県牡丹郷(ぼたんきょう)の「パイワン族」の郷長や長老たち。153年前、祖先が殺害したとされる琉球の被害者の魂を供養する儀式を行い、子孫にあたる宮古島民らと抱き合った。

 被害者の玄孫(やしゃご)にあたる宮古島市議の上里樹さん(66)は「訪問は平和と友好の歴史的な一ページ。過去から学び、私も台湾出兵に対する責任を若い世代に伝えていきたい」とあいさつ。民族衣装を着た牡丹郷長の潘壮志(ハンソウシ)さん(66)は「事件は台湾と琉球、日本にとって重要な意味がある。これからも対話と交流を続けたい」と応じた。

日本の「帝国主義」の原点

 殺害事件は、明治政府発足3年後の1871年に起きた。宮古島の役人ら69人が琉球王府からの帰路、嵐で遭難して台湾に漂着。たどり着いた牡丹郷(当時は牡丹社)で54人がパイワン族に首を切られて殺害された。記録が少なく確かな原因は分かっていないが、言葉が通じず誤解が生じたことや、何らかの交渉が決裂したことなどが悲劇につながったとみられている。

 この事件を利用したのが明治政府だった。

 琉球へ逃れた生存者を通じて…

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