川島栗斎(りっさい)(1755~1811)は江戸後期の儒学者で神道家だ。その思想は幕末の志士にも影響したが、ほとんど知られていない。菩提(ぼだい)寺の傳光院(でんこういん)(大津市)でも、無縁仏として墓地の片隅に墓があるだけだった。その墓が整備され、この秋、法要が営まれた。
「このままだと、大津の大事な学者さんの名が消えてしまう」
危機感を抱いたのは、皇学館大学(三重県伊勢市)で神道史を研究する松本丘(たかし)教授(56)だ。
松本教授によると、栗斎は大津で生まれた。代官所に勤めていた父の跡を継がず、学問に専念。江戸前期の京都で活躍した儒学者・神道家の山崎闇斎(あんさい)の流れをくむ学者らに学んだ。若いときから大津で塾を開き、学問で身を立てた。
儒学と神道を巧みに織り交ぜた学者で、その学問思想は幕末の志士・梅田雲浜(うんぴん)らに引き継がれた。松本教授は「闇斎以来の神儒兼学に新境地を開いた」と話す。
住職も知らなかった栗斎
闇斎を中心に研究していた松本教授が栗斎を調べ始めたのは約4年前。栗斎の活動や著作、講義の内容などをまとめて論文にした。
2020年5月、傳光院にメールを送った。寺に墓がある栗斎のことを調べさせてほしい、とお願いした。
住職の松平康人さん(47)は「お寺にいながらにして、最初は何のことだかわからなかった」と振り返る。
浄土宗の傳光院は1560(永禄3)年にできた。栗斎は檀家(だんか)。松平住職が寺の記録を調べると、栗斎の名前が記されていたという。
賛助金を募って墓を修復
ただ、栗斎をはじめ川島一家の墓は、子孫の絶えた無縁墓が並ぶ墓地の片隅にあった。
松本教授は、その墓を見て心を痛めた。寺の了承を得て、整備を進めた。無縁墓のスペースから、栗斎の師匠にあたる奥野寧斎の一族の墓のそばに移した。賛助金を募り、劣化した墓石を修復し、土台を新しくした。10月に法要が営まれた。
松本教授は「栗斎先生は郷土の学者の一人として記憶されるべき人物。目に見える形でしのぶよすがができたので、手を合わせて下さればありがたい」と呼びかける。
松平住職は「50年後、100年後、仏教があり続ける限り、この寺も続くと思う。川島栗斎さんという方が檀家におられた、ということをつなげていきたい」と話す。(仲程雄平)