三笠宮妃百合子(ゆりこ)さまが15日午前6時32分、入院先の聖路加国際病院(東京都中央区)で老衰のため亡くなられた。101歳だった。宮内庁が同日、発表した。百合子さまは昭和天皇の末弟の三笠宮崇仁さまの妻で、上皇さまの叔母。明治以降の皇族で最高齢だった。皇族が亡くなったのは、2016年10月に亡くなった三笠宮さま以来。
- 百合子さまは「三笠宮家を守った要」 防空壕で戦争継続の激論も目撃
- 【写真特集】三笠宮妃百合子さま逝去 101歳
百合子さまを乗せた車列は午前9時半前に病院を出発。孫の彬子さまが乗った車とともに、三笠宮邸がある赤坂御用地に入った。
宮内庁によると、百合子さまは24年3月に入院。脳梗塞(こうそく)と誤嚥(ごえん)性肺炎と診断され、療養を続けていた。
百合子さまは1923(大正12)年6月、子爵の高木正得氏の次女として生まれた。女子学習院を卒業し、18歳だった41(昭和16)年10月に三笠宮さまと結婚した。
三笠宮さまの伝記「三笠宮崇仁親王」などによると、戦時中に自宅が空襲で全焼。三笠宮ご夫妻は当時1歳の長女甯子(やすこ)さんと一家3人で、防空壕(ごう)での生活を余儀なくされた。日本が45(昭和20)年8月にポツダム宣言を受諾する際には、青年将校らが「もっと戦争を続けるべきだ」と主張するのに対し、三笠宮さまが「もう終わりにした方がよい」と反論。「激論になって、今にもピストル(の弾)が飛び交うような緊迫した」様子だったと百合子さまは振り返っている。
百合子さまは母子愛育会総裁、日本赤十字社名誉副総裁として社会活動に尽くしたほか、民族衣裳文化普及協会名誉総裁なども務めた。
ご夫妻そろっての海外訪問も多く、86年や93年にトルコを親善訪問。89年には、朝鮮王朝最後の皇太子・李垠氏の妻・方子さんの葬儀参列のため韓国を訪問したほか、91年11月には、三笠宮さまのフランス学士院「碑文・文芸アカデミー」会員就任式出席のためフランスを、94年6月には、同じくロンドン大学東洋・アフリカ研究学院名誉会員就任式のため英国を訪問した。
百合子さまは99年5月に不整脈で心臓ペースメーカーを埋め込む手術を受け、2007年7月には大腸がんの切除手術を受けた。
22年6月には、東京都文京区の豊島岡墓地を訪れ、長男の故・寛仁さまの「十年式年祭 墓所祭」に車いすで参列していた。
23年6月の100歳の誕生日に際しては、「多くの方々が私を支えてくださいましたことを、深い感謝の念を抱きつつ思い起こしております」と宮内庁を通じて発表していた。
三笠宮さまとの間に3男2女をもうけたが、長男の寛仁さま、次男の桂宮さま、三男の高円宮さまはいずれも亡くなられた。甯子さんは日本赤十字社元社長の近衛忠煇氏と結婚。次女容子(まさこ)さんは茶道裏千家16代家元の千宗室氏と結婚している。(島康彦、中田絢子)