「父ちゃん、なんかおかしいから早く逃げっぺ」。あの日、この一言を夫に言えなかった。
五十嵐ひで子さん(76)は目の前に海水浴場が広がる、福島県北部の相馬市尾浜地区で民宿を営んでいた。宿泊客約20人分の夕食の買い出しから戻った後、台所で揺れに襲われた。玄関まで腹ばいで進み、近くにあった大きな柱につかまって揺れが収まるのを待った。
その後、夫の利雄さん(当時67)が内陸にある勤務先のスーパーから戻ってきた。散乱した食材や飲み物を2人で片付けながら、合間に海の様子を見に外へ出た。
「波が引けてねえから大した津波は来ねえな」。近所の人が口をそろえた。「津波は引き波から」という言い伝えが地区にはあった。2日前に宮城県沖であった震度5弱の地震でも津波は来なかった。
相馬市には大津波警報が出ていたが、停電でテレビはつかず、防災行政無線が聞こえた記憶もない。消防団員が来て、「岩手と宮城でものすごい津波が来ているから逃げて」と叫んだが、五十嵐さんは重く受け止めず「ほかの人に教えてやれ」と言って、避難しようと思わなかった。
普段は名前呼ばぬ夫 あの日は3度叫んだ
1時間が過ぎたころ、ふと空…