Smiley face

 《1960年代前半、鶴見女子大学(当時)で講師の職を得る。その後「生活経済論」を執筆し、経済学博士に》

 次男を妊娠した時には身重の体で大学に通っていましたが、男の先生はいつも私のおなかを気にしているようでした。「妊娠してるのになぜ勤めているんだ」という批判的な雰囲気を感じて嫌でしたね。当時、女の先生はいても、独身か子どもがいない人ばかりという時代でした。

 経済学者・暉峻淑子(てるおか・いつこ)さんが半生を振り返る連載「学問は生活からしか生まれない」。全4回の3回目です(2024年10月に「語る 人生の贈りもの」として掲載した記事を再構成して配信しました)。

 保育園は経済的に困窮しているか、子育てに困難を抱えているような人しか利用できなかったので、仕事の日にはベビーシッターをお願いしていました。でも、夕方には終わるはずの会議が長引くことが多く、ある時から終了予定の時間が過ぎると、「子どもがいますので、失礼します」と帰るようにしました。非難もされましたが、「子どもが大きくなったら2倍働きますから」と言って。

 《子育ては楽しかったが、必死だった》

 夫は子どもが競争社会の受験勉強をするのがあたり前と思っているようでしたが、私は子どもにはやりたいことを自由にやらせたかった。長男はピアノ、次男はドラムに熱中しましたね。

 夫は進歩的な平和主義者でしたが、家事も子育ても苦手で「やりたい気持ちはあるけど、どうすればいいのか分からない」と言うのです。私にかかる子育ての責任は重く、大学には講義以外にもたくさんの仕事がある。気を抜くことができない毎日でした。博士論文もこうした日々のなかで睡眠時間を削って書くしかありませんでした。

 仕事で初めて会った人から…

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