Smiley face
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家族とともに笑顔で話す摂津さん=福岡県糸島市、本人提供
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 ソフトバンクが球団を買収してから、初の日本一に輝いた2011年は、摂津正さん(42)が先発投手に転向したシーズンだった。

 救援投手として入団から2年続けて70試合以上に登板。「このペースで投げ続けると、選手寿命を縮めてしまうと、首脳陣が心配してくれたのでしょう」

 しかし、そんな配慮に十二分に応える貢献を果たす。先発投手は2ケタ勝利で一流とされるが、いきなり14勝を挙げる抜群の安定感を発揮した。

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 ところがこの年のオフ、球団に激震が走る。和田毅投手が米大リーグ挑戦、杉内俊哉、ホールトン両投手は巨人に移籍し、計43勝を挙げた先発のエース級が、相次いでチームを去った。

 「自分がやらないと、まずい」。翌年、開幕投手を告げられた。チームの浮沈のカギを握る責任から「練習に力が入った」。背中を痛めてしまい、一時は歩けないほど。オープン戦の途中から投げられなかった。

 ぶっつけ本番で臨んだオリックスとの開幕戦。7回1失点の好投で初の大役を白星で飾った。プロ生活で「一番の印象深い試合」と振り返る。

 これで勢いに乗り、17勝で最多勝と最高勝率のタイトルをつかんだ。防御率も1点台。先発投手の最高栄誉の「沢村賞」に輝いた。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表にも初めて選ばれた。

 4年で駆け上がった絶頂期。年俸も億単位で上がっていく。それでも慢心とは無縁だった。

「今年で辞めるわ」「ああ、そう」

 マウンドで喜怒哀楽を見せることが少なく、「ポーカーフェース」と称された。ピンチを切り抜けても淡々とベンチに戻る。

 でも実は「試合に投げるときはいつも怖い」。ポーカーフェースは不安を悟られないようにするための「仮面」だった。

 翌年からも故障との闘いだったが、先発ローテーションを守り、2ケタ勝利を5年続けた。

 この安定感の源は何なのか。「序盤で失点してリードを許しても、『この点差で六回までいけば逆転してくれる』と気持ちを切らさず、投げ続けた」という。これも社会人野球で身につけた「平常心」のなせる技だった。

 だが、もう故障を隠しきれなくなった。腰やひざ、アキレス腱(けん)が痛み、注射をして投げる日々。それでもエースは結果を求められる。トレーニングで負荷をかけると、登板までに回復できなくなり、「どうしたらいいかわからなくなった」。16年以降は成績が下降線をたどっていった。

 18年の夏前、シーズン2度目の2軍落ちが決まり、妻・苑子(そのこ)さんに伝えた。

 「今年で辞めるわ」

 「ああ、そう。わかった」

 素っ気ない反応のようだが、朝起きて歩けない時もある満身創痍(そうい)の夫を見てきた妻は、覚悟していたのだろう。

 その後も、2軍で先発ローテーションを守り続けた。「最後になると思うとね……。やっぱり投げるのが好きだから」

穏やかな日々が暗転、鼻血が止まらない

 引退後は、自然豊かな福岡県糸島市で妻子と暮らし、野球解説者の仕事をしながら、釣りを楽しんでいた。

 穏やかな日々が暗転したのは…

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