坂本幹彦少佐の慰霊碑=2024年11月21日午後0時38分、長崎県諫早市、天野光一撮影

 長崎県諫早市の高い木々が茂る山中に「坂本少佐慰霊碑」と彫られた石碑がある。太平洋戦争で日本の敗色が濃厚になった1944年11月21日、米軍の大型爆撃機B29に戦闘機で体当たりした操縦士を悼む碑だ。80年となる今年、同じ空戦で亡くなった別の操縦士3人の銘板が、石碑にそっと加わった。

 慰霊されているのは、現在の佐賀県唐津市出身の坂本幹彦少佐。海軍兵学校に入る前の中学校では剣道が得意で、級長も務める優等生だったという。体当たりをした時は21歳の中尉で、死後に2階級特進した。

 体当たりは、中国内陸から飛来したB29の大編隊との空戦だった。米軍側の目標は、諫早に隣接する大村市にあり「東洋一」とうたわれた航空機工場「第21海軍航空廠(しょう)」だった。

 坂本少佐は大村にあった第352海軍航空隊の所属。石碑は、坂本少佐の遺体発見地の近くに住む元士官らが1992年に建立した。同時期、墜落したB29の搭乗員の鎮魂碑も建立した。B29の搭乗員の碑は海岸近く、坂本少佐の碑は山中にあり、車道沿いだと16キロほど離れている。

 銘板を追加したきっかけは、諫早市美術・歴史館の主任専門員、大島大輔さん(48)の研究だった。

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