かつて甲子園にもあった「ラッキーゾーン」が現存する珍しい球場がある。鳥取県の倉吉市営野球場だ。
左翼の本来のフェンスの前に照明塔が立っていて、さらにその前にラッキーゾーンが設けられている独特の構造。1985年の「わかとり国体」で、大阪・PL学園高時代の桑田真澄と清原和博の「KKコンビ」が高校最後の公式戦を戦った舞台としても知られている。
この球場の左翼のラッキーゾーンに打ち込んだ一人が常藤充博(55)だ。米子東高3年だった87年夏、8強進出をかけた倉吉産高戦は1―1で九回裏に突入し、2死二塁の好機で右打席に入った。
高校での本塁打は、練習試合での1本のみ。快音を残して飛んだ打球の行方はほとんど見ずに走った。二塁走者の生還でサヨナラ勝ちを確信。自身は二塁打という認識で、二塁付近で走る速度を緩めた。すると、「仲間がベースを回ってこいって。そこでホームランだったって、初めて知ったんです」。
当時を振り返りながら、常藤は言う。「ホームランだと気が付かないのがラッキーゾーンなのだとも思います。何せ、金網があるだけで、グラウンドと同じ色。めったにホームランを打ったことのないバッターは分かりませんよね。ホームランを打てるとは思っていませんでしたので、打球を見ながら悠々と走ることは絶対になかったと思います」
この1年前の夏に出場した甲子園で、苦い思い出を残していた。背番号12をつけて三塁コーチャーをしていた3回戦の奈良・天理高戦。走者が二塁にいた時に、打球が右翼に伸びた。白球は大勢の観客と重なり、見失ってしまった。
「フライなのに、手を回してしまって。走者はライトからの返球でダブルプレー。大失敗でした」。3年夏は、その雪辱もあった。
常藤の父と叔父も、同じユニホームを着てプレーした先輩だ。叔父は、鳥取県勢が春夏を通じて唯一、甲子園の決勝まで勝ち上がって準優勝した1960年春のメンバーでもあった。
今度は、野手として甲子園でプレーするんだ――。その思いにまでは、わずかに届かなかった。八頭高と戦った決勝は4―4で九回へ。最後は右犠飛でサヨナラ負けを喫し、八頭は春夏を通じて初めての甲子園への出場を決めた。
「閉会式の時は、こみ上げてくるものがあったけれど、やりきったという感覚があった。悔しくて、悔しくて、という思いは、不思議となかったと思います」
大学でも硬式野球を続けた常藤は、卒業後は小学校の教師になった。野球好きはいまも変わらず、母校の試合を見に球場に足を運ぶ。そして、イニングの合間には、スコアボードの写真をスマホで撮っている。
「高校野球部の同級生のグループLINEに送っているんです。みんな母校の試合が気になって」。観戦しているときには、高校球児に成長した教え子から声をかけられることもある。
元球児が聖地をめざす「マスターズ甲子園」では、いまも母校のユニホームを着てプレーしている。今春は、思い出深いこの球場で戦った。
「硬球は、やっぱり打感がいい。以前、マスターズの企画でキャッチボールを甲子園ですることができる催しがあったので、娘と出ました。野球を通じて、いまもいろんな楽しみをもらえるというのは、幸せですね」=敬称略
倉吉市営野球場
1964年完成。両翼92メートル、中堅120メートル。JR倉吉駅から車で約10分。2003年夏、場内のフェンスに契約終了後も残ったままになっていた企業広告を市民ボランティアがペンキで緑一色に塗り替える作業をし、「グリーンスタジアム倉吉」の愛称がついた。夏の高校野球鳥取大会では、2014年を最後に使用されていない。