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左翼席最上部から見た万博球場。「太陽の塔」や、高さ日本一を誇るエキスポシティの観覧車、パナソニックスタジアム吹田をそろって望むことができる=大阪府吹田市、渋谷正章撮影
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 2025年4月、「大阪・関西万博」が大阪市此花区の夢洲(ゆめしま)で開幕する。

 大阪での万博といえば、大阪府吹田市で1970年に開催された「大阪万博」を思い出す人も多いだろう。約半年の会期で延べ約6420万人が入場し、空前の活況を呈した。

 その跡地に「万博」の名を受け継ぐ球場がある。

 万博記念公園野球場、通称「万博球場」。大阪万博の時は巨大な駐車場だった場所に、74年7月13日にオープンした。

 大阪万博のシンボル的存在の「太陽の塔」や、日本一の高さ(123メートル)があるエキスポシティの観覧車、サッカーJ1ガンバ大阪の本拠である「パナソニックスタジアム吹田」が近い。サッカーの試合がある日などはにぎわうが、周辺は緑に包まれ、ふだんは静かなたたずまいを見せる。

 高校野球との縁は深い。オープンの6日後に全国選手権大阪大会の1回戦が行われている。大阪シティ信用金庫スタジアムや南港中央野球場が当時まだなく、プロ野球近鉄バファローズ(現オリックス・バファローズ)の準本拠だった日生球場や、南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)の本拠だった大阪球場なども大阪大会で使われていた。

 両球場ともプロ野球との日程調整に苦労したといい、比較的確保しやすい万博球場はありがたい存在だった。

 2021年まで大阪府高校野球連盟の副理事長を務め、現在も同連盟事務局嘱託として高校野球に携わる池永徹(74)は、オープン当初から万博球場を知る一人だ。

 阪南、山田、茨木の野球部で監督を務めながら、1980年に府高野連理事となり、万博球場での大会運営にあたってきた。

 万博球場について、池永が真っ先に思い出すのが府高野連審判部副部長だった故・山本克己だ。審判を務めながら、グラウンド整備にも心を砕き、選手がプレーしやすい環境づくりに力を尽くした。

 「雨が降った翌朝、万博球場に着くと、すでに山本さんが他の審判を集め、水抜きをしてくれていたこともあった。これまで大会運営がうまくいったのは、そういった方がいたからです」

 桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」を擁し、83年夏から5季連続で甲子園を沸かせたPL学園の人気には池永も驚いた。

 「KKコンビ」が3年生だった85年7月、PL学園は門真西との大阪大会4回戦を万博球場で戦い、7―0で勝った。気付くと本塁側にある正面玄関の前に数え切れないほどのファンが集まっていた。このままでは危ないと、試合後は外野スタンド裏にある出入り口から選手を出す異例の対応をした。

 打球の飛距離で忘れられないというのが「おかわり君」の愛称で知られる大阪桐蔭の中村剛也だ。2001年夏、柴島との大阪大会2回戦で、中村は中堅左に特大の一発を放った。「スコアボードの裏手にある木々に打球がライナーで飛び込んだ。その先にある名神高速まで行ったんちゃうか、と騒然となりました」。池永はこの一撃でプロでの飛躍を予感したという。

 野茂英雄(成城工=現・成城)、上原浩治、建山義紀(ともに東海大仰星=現・東海大大阪仰星)、前田健太(PL学園)、藤浪晋太郎(大阪桐蔭)ら、のちに大リーガーになった投手たちも多くプレーした。スタンドに屋根がないため、夏になると外野の木陰に陣取り、一日中、試合を見つめる熱心なファンがいるのも恒例だ。

 池永は「万博球場で、どんな素晴らしい選手や試合と出会えるか。これからも楽しみです」と変わらぬ期待を寄せている。

=敬称略

万博記念公園野球場

 大阪モノレール万博記念公園駅から東に徒歩15分。スタンドは内外野とも芝生席で、7700人を収容する。両翼90メートル、センター120メートル。高校野球のほか大学野球のリーグ戦なども行われている。三塁側スタンドの最上部などからは、芸術家の岡本太郎氏がデザインした高さ約70メートルの「太陽の塔」が見える。

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