「油まみれで働いていると、勉強の時間が恋しくてね。普段は怠けている生徒も、休み時間には本を広げていた」
1941(昭和16)年に旧制熊谷中学校に入学した高城三郎さん(96)=行田市=は44(同19)年11月、富士電機製造の吹上工場に勤労動員された。旧制不動岡中学校や私立の女学校も含め、120~130人の生徒が集められ、いくつかの班に分かれて電機部品の製造などを担当した。
高城さんは、飛行機の位置をとらえるレーダーを回転させる装置(回転台)を造る班に割り振られた。毎日弁当を持って工場に通った。危険な作業はなかったが、空襲警報が鳴ると、荒川の土手に逃げた。
動員された月にあった全校生徒のお別れ会で、英語の先生が悲しそうな顔をして「今はこんな時代だが、必要になる時が必ずくる。英語を続けてください」と言ったことを覚えている。学校では追放されていた英単語も、工場内では使われていて「ばかばかしい」と思った。
終戦後、自分たちが造った回転台は運ぶこともできず、吹上駅で雨ざらしになっていたという。
注目浴びる「学校日誌」戦時下の日常浮き彫りに 勤労動員、空襲……
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43(昭和18)年に旧制松…