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復旧工事完了の「奉告祭」を終え、記念撮影にのぞむ阿蘇惟邑宮司(前列左)と氏子会の小代勝久会長(後列右)=2025年4月16日午後0時9分、熊本県阿蘇市一の宮町宮地、城戸康秀撮影
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 熊本地震の「本震」から9年を迎えた16日、熊本県阿蘇市の阿蘇神社では復旧工事完了の「奉告祭」があった。参列したのは氏子会の会長ら5人。神々への報告を終えた36歳の宮司と90歳の氏子会長が「忘れてはならない」と口をそろえたのは、復旧にかかわり、支援してくれたすべての皆さんへの感謝だった。

 9年前の16日午前1時25分、阿蘇市を襲った震度6弱の揺れで、3棟の神殿と楼門など国の重要文化財6棟が被災。楼門と拝殿は倒壊した。ぺしゃんこにつぶれた2棟の奥に、ふだんは見えない神殿が丸見えになった。

 「楼門がびっちゃげちょる(つぶれている)」。氏子会の役員から小代勝久会長が電話連絡を受けたのは16日未明。夜明けを待って駆けつけてみると、二層の楼門の大屋根は手が届きそうな場所に崩れ落ち、「阿蘇神社」の大文字がおどる扁額(へんがく)も目の前にあった。

 「この世には神も仏もおられんのか」。涙があふれてきた。復旧できたとして、自分は見ることができるのか。80歳を超えていた小代さんは、そんな不安も抱いた。

 やがて、神社周辺の被災状況が明らかになってきた。氏子たちの田んぼはほぼ100%無事。家が倒壊した人もいなかった。口々に「お宮さんが全部かろうて(背負って)くれたから助かった」という。「ちゃんと神さまはおられたんです」

 重要文化財の復旧は国、県、阿蘇市の補助事業として進められたが、文化財ではない拝殿などは公的支援は受けにくかった。16年秋、復旧工事への寄付が税控除される「指定寄付金」が利用できる特例措置が講じられた。寄付金は約2年で目標の4億円に達し、拝殿などの復旧に充てられた。復旧を果たした神社で、小代さんが振り返る。「神社と私たちだけではどうにもならなかったと思います」

 阿蘇神社が被災した時、大分県内の神社で修業中だった阿蘇惟邑(これくに)宮司は、19年夏に宮司職を継いだが、「これからどうなるのかという不安しかなかった」という。

 阿蘇神社の創建は紀元前282年。社殿が荒廃した時代もある。1840~50年に造られた楼門など文化財6棟は、震災前からいずれ修復・再建が必要になると言われていた。「おそらく自分の代で」との覚悟もあったが、まさかこんな形で直面するとは思わなかった。

 詳しい設計図がない楼門の復元は困難を極めた。部材ひとつひとつを慎重に解体。約7割の部材を再利用して、古材と新材は特殊な技術でつないだほか、鋼管柱や鉄骨フレームで支えて耐震性を持たせた。宮司は、邪魔にならないよう気をつけながら、現場の職人や技術者の話に耳を傾けた。

 23年3月。高さ24メートルの素屋根とよばれる大きな建物の中で、ほぼ元の姿を取り戻した楼門の特別公開があった。一般の参加者をボランティアが案内する中、神社にゆかりのある人たちのガイドは宮司自ら引き受けた。

 四季折々の神事ではさまざまな装束をまとい朗々と祝詞(のりと)をあげるが、ふだんはほかの神職と同様、白衣にはかま。境内を歩いていると、参拝者から「お手洗いはどこ」と尋ねられることもある。年末に拝殿と楼門のしめ縄をかけ替える際、神事を終えた宮司は作務衣に着替えて作業に参加する。火をつけた茅(かや)束を振り回して神様の結婚を祝う3月の「火振り神事」では、観光客らの「体験火振り」もあり、宮司がその輪に加わることもある。

 コロナ禍もあって少なくなっていた観光客も、震災前を上回るほどに増えたが、宮司には気がかりがある。ある日、楼門のつぎはぎ部分について、観光客から「あれは何」と問われた。震災の記憶は確実に薄くなっている。「神社を元の姿に戻すことと同様、復興の取り組みを次の世代に伝えていくことも私たちの使命だと思っています」

 信仰の場という神社本来の大切な部分を守りながら、「参拝に来られた方々にまた来たいと思ってもらうために、工夫していくことが大事」だとも考える。

 若い宮司のもとで、神社は変わりつつある。9年前、阿蘇神社にはホームページがなかった。ほどなく開設、被害状況や復旧の様子を随時伝えてきた。

 今はSNSでの発信にも力を入れる。インスタグラムには神社の日常を切り取った写真が次々に投稿される。「中の人」は? 宮司の答えは「神職の1人」だった。

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