歴史教科書でおなじみ
魚(朝鮮半島)を釣り上げようとする侍(日本)と弁髪の男(清)に、橋の上から漁夫の利を狙うロシア人。猿の姿が映った鏡の前でポーズをとるのは、西洋の服を着た日本人の男女――。フランスの画家ジョルジュ・ビゴー(1860~1927)の名前は知らなくても、明治日本の世相を皮肉った風刺画は、教科書などで見覚えがあるかもしれない。
栃木県で勤務していた2021年、ビゴーの作品を300点以上所蔵する宇都宮美術館で開かれた作品展を取材した。てっきり、風刺画を並べた展覧会だと思っていたが、そこで見たのは、江戸時代の面影を残す市井を生き生きと描く、写実的な絵の数々だった。ひなびた日本家屋、くだけた装いの町人。とても同じ人が描いたとは思えない。
この二面性は何なのか、ずっと引っかかっていた。彼が晩年まで思い入れがあったという、同じ栃木県にある日光市へ向かい、足跡をたどってみた。
はじめての日光
5月末。早朝、東京・北千住駅から東武線の最新特急列車で1時間半、終点の東武日光駅に降り立った。駅前には「標高543メートル」の看板。あいにくの雨で初夏にしては冷え込み、長袖シャツでも肌寒い。この日の最高気温は18.3度だった。
市内にある小杉放菴(ほうあん)記念日光美術館学芸員の迫内祐司さんは11年、同館で「ジョルジュ・ビゴーと日光」展を企画。ビゴーと街のかかわりを調べ、パンフレットに詳しくまとめている。
パリに生まれ、画学校を経て挿絵画家の仕事をしていたビゴーが、横浜港に降り立ったのは21歳の時。迫内さんによると、東京・横浜近辺で画学教師として働いていたビゴーが初めてその外に出たのが、4年後の1886年8月末、日光への旅だったとみられる。その後も訪れる機会があったようで、日光を描いた多くの絵が残っている。また、晩年まで大切に保管していたというアルバムには、日光の写真40枚が収められている。
日本の都市の空気しか知らなかったビゴーは、日光で何を感じたのだろうか。駅からバスで10分ほど、彼が当時訪れた日光東照宮へ向かった。
記事の後半では、日光東照宮や奥日光を歩き、ビゴーの絵が持つ二面性の謎について考えます。
日光山輪王寺(りんのうじ)…