温又柔さんが3歳まで暮らした、台北市のアパートの前で=朝岡英輔氏撮影

 私は、「見た目通り」ではない。その私が、自分を語る「権利」とは。台湾で生まれ、日本で育った作家の温又柔さんが、「日本人」が圧倒的多数の日本で見いだす自身のアイデンティティーについてつづります。

Re:Ron 作家・温又柔さん寄稿

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 28歳から29歳にかけての約1年半ほど、「温」ではない姓を名のっていたことがある。両親と妹と4人で暮らした家を出て、U介氏との同居を始めた時期だ。

 U介氏は大学院の同級生で、2008年の夏に私たちは、身内だけの挙式と披露宴をした。その翌日から二人で住み始めたマンションの表札には、U介氏の姓だけをひとまず掲げた。

 当時の私は、都内各地の公立小中学校をあちこちめぐって、日本の学校に転入してきた外国人の子どもたちを対象に、日本語の「初歩の初歩」を教えるという日々を過ごしていた。

 よっぽど、人手が足りていなかったのだろう。都や区からの委託を受けて、多言語対応の日本語講師および生活指導員を各地の小中学校に派遣する会社は、日本語教師の正式な資格がなく、教職経験も皆無の私を、すぐに雇ってくれた。

 会社が催す講習会では、タガログ語、ミャンマー語、ポルトガル語にブラジル語などができる先生たちと知り合った。これらの言葉は、どれも日本に転入してきた子どもたちの「母語」なのである。

 私はといえば、「中国語ができる先生」として、上海や広州、吉林省、それに私自身の出生地である台湾も含む中国語を母語とする子どもたちが転入した学校に派遣される。

 オンセンセイ、ではなく、ウェンラオシー、と呼ばれていた。ウェン、は、温、の中国語の発音で、ラオシー、は、老師。中国語で、センセイ、という意味だ。

 忘れられない。

 私の顔を見た途端、ぱっと顔を輝かせる子が何人もいた。

 ――○○ちゃんは、普段はとても無口なんですよ。

 そんな子が、私といるときは口数が増える。たぶん、私と同じように日本語講師としてあちこちをめぐっていたタガログ語の、ミャンマー語の、ポルトガル語やブラジル語のセンセイたちも、行く先々で、来日したばかりの子どもたちに、そうやって頼られていたと思う。

教員のサポートを受けながら、オンラインで日本語指導を受ける男子児童(本文と関係ありません)

 身に覚えがある。私も、そうだった。自分の言葉ができる大人と思いがけず出会うと、私も、突然、冗舌になった。とりわけ、まだ日本語をほとんど知らなかった幼稚園の年中組にいた頃の私は、中国語で声をかけてくれる人と出会うと、安心と興奮が同時に押し寄せた。

 私は日本語が全然できなかった。それなのに周囲は全員、日本語しか話さない。

 みんなが、私のわからない言葉を話している。

 いや、私だけが、みんなの言葉を話せない。

 そんな環境だったので、私は、私の言葉を使うのを早々に諦めた。当時の私が身につけつつあった言葉。それは私が赤ん坊の頃からずっと、親をはじめ、周りにいた大人たちがしゃべっているのを耳にしながら少しずつ覚えた台湾の言葉――中国語と、台湾語と呼ばれることばが混ざり合ったもの――だった。

 ところが、日本で暮らしているなら、日本語ができなければ、ほとんど何もできない。

3歳で台湾から来日した私自身も、台湾人である私の両親も、まったくそのことを疑わなかった。

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■■日本語と中国語の間で…

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