太平洋戦争末期の沖縄戦で、沖縄県民に次ぐ1万807人の犠牲者を出した北海道。1964年に北海タイムス(廃刊)に267回にわたり連載された道産子たちの沖縄戦記「あゝ沖縄」は、どう作られたのか。筆者の清水幸一さん(故人)と生前に交流があった文化人類学者の大阪大学・北村毅教授(50)に聞いた。
北村毅教授「戦後の人間関係をつなぎ直す」
2003年、沖縄で沖縄戦体験者や遺族に聞き取り調査をしていた時です。「北海道出身でしたら、『あゝ沖縄』を知っていますか」という言葉で存在を知り、筆者の清水幸一さんに4度、面会しました。
連載当時は戦後19年しかたっておらず、沖縄はまだ本土復帰(72年)していません。沖縄戦研究が本格化するのは70年代。沖縄県民の戦争体験を収録した「沖縄県史」もまだ刊行されていません。そのため、当時44歳の清水さんは資料集めに苦労されたそうです。助けてくれたのは、沖縄の方々でした。
清水さんは連載開始前の1964年2月、2週間ほど沖縄で取材します。その様子が、沖縄タイムスなどで報じられ、清水さんは紙面で協力を呼びかけました。
すると、清水さんの宿泊先の旅館に、記事を読んだ沖縄の人たちが来訪。北海道兵が戦死した場所を案内してくれたり、関係者を紹介してくれたり。一方、沖縄の住民からは、北海道に帰った生存者の近況を聞かれることもあったようです。清水さんは、そうした沖縄県民の厚意を「沖縄戦に散った郷土部隊将兵の“道産子精神”が、住民に好感を与えたため」と振り返っています。
- 連載267回に込めた記者の執念 道産子の沖縄戦「死に際を遺族へ」
- 北海道兵たちの沖縄戦を新聞連載 1964年時点の情報「宝の山だ」
清水さんの取材は、戦時下で…