
現場へ! 台湾歌壇の戦後(4)
台湾がくぐり抜けてきた幾多の苦難。台湾歌壇の会員たちは、その辛苦を短歌に刻み込んできた。
李雪峰さん(故人)は太平洋戦争末期、台湾から日本に渡り、神奈川県の海軍工廠(こうしょう)で戦闘機「雷電」を造った。航空機を製造しながら勉強すれば、上級学校と同等の卒業資格が与えられるとして、平均14、15歳とも言われる約8400人が海を渡った「台湾少年工」の1人だ。彼らはその後、日本各地へ派遣され、空襲で約60人が亡くなったとされる。

李さんは当時17歳。剣道2段の腕前で、10代前半の少年が多い中、寮長を任されていた。名古屋の軍需工場に派遣され、たまたま歯科医院で治療を受けている時に工場が空襲され、部下の少年工25人を失った。
海渡った台湾少年工8千人
敗戦後、台湾から来ていた少年工たちは日本に放置された。自暴自棄に陥った彼らをまとめ、自治組織を作って日本政府と交渉して退職金や台湾に戻る船を勝ち取ったのが、リーダー格の李さんだった。
戦時中、宿舎の舎監の息子として少年工たちと暮らし、現在も同県大和市で、元少年工たちと交流を続ける石川公弘さん(91)は「李さんの尽力がなければ、少年たちは台湾に戻れなかった。台湾に戻った彼らが今の台湾の礎を築いたのです」。

2018年、石川さんは同県座間市に少年工の顕彰碑を建設し、次のような短歌を刻んだ。
〈八千の台湾少年雷電を 造りし歴史永遠に留めん〉
台湾東部の台東から船で約1時間。緑島はかつて政治犯が収容された「監獄島」だ。
戦後、台湾では「暗黒の時代…






