
2011年3月11日午後。大阪(伊丹)空港(大阪府)そばに立つ日本航空(JAL)グループの「ジェイエア」本社の会議室に、大阪地区のグループ幹部が集まっていた。
午後3時から始まる会議を前に、社長(当時)の山村毅は少し早く席についていた。幹部と談笑していた矢先、突然、揺れが襲った。
「天王洲(東京都品川区)はものすごい揺れのようです」
東京のJAL本社と電話中の社員が声をあげた。その後、震源地が遠く離れた宮城県の三陸沖だと聞き、山村はがくぜんとした。
「何で大阪がこんなに揺れるんだ」
テレビ画面からは、海沿いの仙台空港が津波に覆われる映像が飛び込んできた。会議は中止となり、幹部たちはそれぞれの状況確認に走った。

山村がまず急いだのが、飛行機や社員の安否確認だ。スケジュール通りだと、ジェイエア機が仙台空港に駐機している時間で、会議の前に、パイロットに「気をつけて」と送り出した便だった。しかし、偶然にも整備の関係で出発が遅れ、仙台に到着する前に引き返していた。
仙台にいたパイロット2人、客室乗務員1人のクルーと、仙台で仕事をしていた整備士1人の計4人の無事も確認できた。
山村は「社員を預かる立場として、全員無事で本当によかった」と振り返る。
そして、安心したのもつかの間、すぐに頭を切りかえた。「東北に臨時便を出すぞ」
社員500人にも満たない小さな航空会社にとって、前例のないフライト計画の始まりだった。
異例のフライトに臨んだ日本航空(JAL)グループ会社のジェイエア。山村毅社長を突き動かした背景には、前年に起きたJALの「苦い記憶」がありました。記事後半では、臨時便にある「壁」が立ちはだかります。
「飛行機屋」としての信念で
ジェイエアは、JALグルー…














