慶応義塾のトップが文部科学省の審議会で行った提言に関するニュースを読んだ。国立大学の学費を現在の1人当たり54万円から150万円程度に引き上げるべきだと訴えたとのことだった。学費の差が大きい私立大と国公立大の「公平な競争環境を整える」目的だそうだ。奨学金の拡充も訴えていた。また、国立大学の経営を考えると、現状の学費の水準では国の交付金を合わせても十分ではない、との指摘は考えさせられた。
教員たちによって手渡され続ける教育を公共の財産だと考えると、公私の区別はなくてもいいように思う。それがどこで行われていても、社会の利益になるからだ。その視点から考えると、国の補助が手厚い国立大学に対して、私立大学の側が不公平感を持つことは理解できる。
しかし、特に都市部では、小学校から有名私立大学の付属校への入学が競い合われて、受験対策や入学にかかる費用など、経済的な格差が機会の不平等に一役買っている。入学試験は学力による選抜だが、貧富による選抜の性質があることは否めない。国立大学の学費まで高額になれば、経済的に恵まれない人たちから進学の機会が奪われていく。既に富を得ている人たちだけが機会を得るのならば、機会のみならず富の偏在が固定化して、格差社会どころか階級社会ができあがってしまう。研究や学問の内容や実績とは別に、学校自体がある種のコミュニティーへのゲートと化していることを、よく話し合ってもいいのではないかと思う。
誰からも経済的な援助を受けられず自活する以外に術(すべ)のない人でも、等しくその能力を開花させる機会が得られる環境を、国家のみならず大人たちは整備すべきではないか。社会によって私は育まれたと感じられるからこそ、社会に何かを返そうという意欲が高まる。社会はそうして、贈り物と返礼のようなかたちで豊かさを保っていると思う。(ミュージシャン)
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