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引退試合には多くの地元の人が駆けつけた。左翼側の奥には仮設住宅が残る=2025年11月16日、石川県輪島市門前町清水、平井茂雄撮影
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■輪島市門前野球場(石川)

 金沢市から車で北に向かい、海沿いの道に出て能登半島を目指す。2024年の能登半島地震から2年以上が経つが、いまだに崩れた道路などの復旧作業が続いている。

 2時間ほどでたどり着く輪島市門前野球場は、曹洞宗大本山・総持寺の門前町として栄えた門前地区にある。石川県立門前高校野球部が練習に使っている球場だ。

 昨年11月のよく晴れた日曜日、田舎の小さな球場に100人ほどの観客が集まっていた。観戦していたのは門前3年生の引退試合。観客は選手の父母らが主だが、地元住民や隣の仮設住宅の住民も多くいる。

 3年生と、1、2年生に分かれ、1、2年生を率いたのは監督の村中健哉(29)。3年生の指揮を執ったのは野球指導アドバイザーの山下智茂(81)。強豪・星稜高の元監督で、監督として春夏計25回甲子園に出場し、松井秀喜(元大リーグ・ヤンキースなど)を育てた名将だ。

 試合中、球場には山下の元気な声が響いた。「お前、そんな良い球投げられたんか!」「ナイスプレー! 夏に出しとけばな」。観客席から笑いが起きる。

 山下が母校・門前のアドバイザーについたのは22年のことだ。過疎化などで定員割れが続き廃校の危機だった門前の生徒を増やすなどの目的で、輪島市は「高校魅力化プロジェクト」を進めていた。県立高校を後押しし、地域活性化を図る狙いだ。

 当時は市管理課の職員で、今は地域振興課・高校魅力化推進室特任係長の山崎高志(48)は振り返る。「相談を受けて『門前出身の山下先生に野球を教えてもらえるか聞いてみましょうか』と提案したんです」。山崎は星稜野球部出身で、山下の厳しい指導を受けた教え子。当時、山下は星稜の運営法人を退いたタイミングだった。

 話は進み、山下宅に市職員2人で最終確認に行った。「では、お願いします」。だが、山下は無言のままうなずかない。結局、30分ほどの長考の後、快諾してくれた。

 山崎は「故郷に貢献したい強い気持ちと、育て上げた星稜を離れる寂しさの間で、即答できなかったのでは」と、山下の胸の内を察した。

 山下の就任を機に、球場の改修が進んだ。元々は軟式基準の設備だった球場に、ブルペンをつくり、バックネット裏のスタンドも改修も進めた。「こんな立派な球場を使わせてもらって、本当にありがたい」と山下と村中は口をそろえる。

球児が集まり、まちに活気

 山下の指導を受けたいと、生徒も集まり始めた。当初は市内の9人だけだった部員は県外からも集まるように。山下は「地域密着」を掲げ、登校時に住民へのあいさつはもちろん、町中の雪かきや地元行事に参加するようにした。

 総持寺通りの仮設店舗で洋品店を営む能村武文(68)は「元気の良いあいさつなどで、まちが活気づいた。地域の宝」と話す。

 まちに響き始めた活気ある声に、地元住民は球場へいざなわれた。

 平沢利子(76)もそんな一人。親類の臼池正弘(71)と、仕事終わりに毎日のように球場に寄る。「今でも野球のことはあまりわからんけどね。みんな元気で、見ていると疲れが吹っ飛ぶ」。2人は県外の練習試合にも応援に行くほどになった。

地震ニモ豪雨ニモマケズ

 しかし、2年前の元日、大地震に襲われた。奥能登全体が大きな被害を受けた。球場もフェンスの柱の基礎が傾き、裏山の土砂が崩れるなどした。

 自宅が全壊した選手ら多くが被災者に。電気も水道も断たれた中で、その年の3月末まで、部活動ができなかった。4月以降も選手たちは、荷物の運び出しや泥出しなどのボランティアに汗を流した。

 山下は「選手たちの気持ちが強くなった。地震との闘い、豪雨との闘いでたくましくなった」と話す。チームはその夏の石川大会から3季連続で県8強入り。この4月に25人の新入部員を迎え、部員は57人になった。

 甲子園を夢見て、被災地に集った選手たちが汗を流す球場に、平沢と臼池は、今日も足を運ぶ。2人は言う。「この球場が、甲子園につながったら、こんなにうれしいことはない」=敬称略

輪島市門前野球場

 1982年に門前町営野球場として開場。軟式野球の規格に合った両翼91メートル、中堅110メートル。全日本中学女子軟式野球大会の会場になったことも。輪島市街、のと里山空港から車で約40分。

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