Aストーリーズ 憲法前文を書いた男 ハッシー(1)
日本国憲法の制定に深く関わった、ハッシーという米国人がいた。前文の原案を書き、平和への理念を託した。残された膨大な資料から足跡をたどり、公布80年のいま、彼が描いた平和のかたちから日本の針路を見つめ直す。
憲法の前文は、「日本国民は」で始まり、「理想と目的を達成することを誓ふ」で終わる。国民主権、平和主義、基本的人権の尊重が示され、とりわけ国際協調による平和主義を丁寧に語る。
自衛のための戦争さえ放棄し、すべての人々の「平和的生存権」の実現を率先する。各国から信頼を得ることで、自国の安全を保つ――。そんな理念が、憲法を作る中で込められていた。

しかし、世界で戦争は絶えず、東アジアでも緊張が続く。自民党政権は自衛の範囲を広げ、自衛隊を強化し、防衛産業の支援に努める。「日本国民」が憲法で語る姿と80年後の現実には、大きな隔たりがある。
平和はどうすれば生まれるのか。相互不信による軍事力の拡大を抑える道はないのか。憲法の前文の原案を書いた人物は、何を考え、私たちに何を託したのか。彼が残した文書から考える。
43歳の弁護士、日本人の社会心理を研究
1945年8月10日の朝、米ボストン近郊のプリマス。43歳の弁護士で海軍少佐のアルフレッド・ロドマン・ハッシー・ジュニアは、自宅でひげをそっていた。
日本降伏への動きを伝える午前8時のニュースに、耳をそばだてた。出発の時が来た。太平洋の向こう、極東の島国への長い旅が始まる。

ハッシーは日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の幹部だ。しかし、果たした役割を知る人は少ない。
1902年、マサチューセッツ州の牧師の家に生まれた。バージニア大学のロースクールを卒業して弁護士となるが、日米開戦の翌42年に海軍大尉に任官する。
日本の占領を見越し、士官として育成された。44年にプリンストン大学で極東を、45年にハーバード大学で日本語を学んだ後、米政府の戦時情報局に送られ、「菊と刀」を後に著すルース・ベネディクトらと日本人の社会心理を研究した。
日本降伏への動きをニュースで知った翌日、ボストンから空路、西海岸のカリフォルニア州モントレーへ飛び、米軍の民政要員駐屯所に出頭。日本進駐に備え、まずフィリピンへ向かう。
「他の士官二十数人と、きしむ古い爆撃機LB30に郵便物や物資とともに詰め込まれ」ながら、1週間後にマニラに着く。その間に日本は、民主化の徹底と軍国主義の排除を求める連合国のポツダム宣言を受け入れ、降伏していた。
日本軍との戦闘で壊れた市庁舎に設けられた駐留米軍の司令部に、65歳の陸軍元帥ダグラス・マッカーサーがいた。
日本を占領する連合国軍最高司令官に任命され、計画を練っていた。
部下となったハッシーは「その時点ですでに、彼の指示の力強さと明晰(めいせき)さを感じた」。
マッカーサーは9月2日にある日本の降伏文書調印式に向け、輸送機C54で日本へ。8月30日、神奈川県の厚木飛行場にコーンパイプをくわえて降り立つ。

しかし、GHQに参加する大半の士官は、東京への「足」がない。
他の部隊が東京に向かう用事ができるのを待つという、「ヒッチハイク」を強いられた。
9月中旬に海軍の輸送艦に乗るが、行き先が途中で東京から南太平洋のガダルカナル島へ変わり、沖縄で降ろされる。
ネズミだらけの廃屋で10日間過ごした後、「親切な飛行隊長の計らいで」爆撃機B25に乗る。米国に戻る前に日本本土で休養したいという乗組員らのための便だった。
「ついに東京行きの道が開けた」
ハッシーら士官は、機内の隅に3、4人ずつ分乗。マッカーサーに遅れること約1カ月、厚木飛行場にたどり着いた。
記事末尾で、日本国憲法の制定過程を描いたドラマ本編(約12分)と当時のマッカーサーの執務室の3D映像がご覧いただけます
「大仕事で途方もない責任です」
数日後の45年10月2日、GHQが東京で始動した。
拠点となった皇居そばの第一…
